幕府海軍の主力軍艦「開陽丸」の建造から沈没・復元までの歴史

📌 主なポイント
- ✓開陽丸は、江戸幕府がオランダのドルトレヒトの造船所に発注・建造させた木造シップ型フリゲートである。
- ✓1867年4月に横浜へ入港し、幕府海軍の最新鋭主力艦として運用された。
- ✓明治元年11月、蝦夷地・江差沖にて暴風雨により座礁し、沈没した。
- ✓1975年から本格的な水中発掘調査が行われ、1990年に江差町で復元された。
開陽丸(かいようまる)は、幕末期に江戸幕府がオランダに発注・建造した木造シップ型フリゲートであり、当時の幕府海軍における最大の主力軍艦である。オランダでの愛称は「Voorlichter(夜明け前)」とされた。
建造の背景と発注
1853年のペリー来航による海防力の危機感から、江戸幕府は強力な海軍の創設と軍艦の整備を進めた。しかし諸外国から購入した中古艦艇だけでは強力な艦隊に対抗できず、外国船に劣らない新鋭艦の建造が求められるようになった。文久2年(1862年)、老中らの決定により、オランダへ最新の設計・設備を持つ蒸気機関推進の軍艦発注が依頼された。
建造はオランダ・ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所で行われ、1865年(慶応元年)9月14日に進水式が挙行された。また、日本側からは内田恒次郎や榎本武揚、澤太郎左衛門ら多くの留学生がオランダへ派遣され、航海術や機関、造船などの技術を学んだ。当初の計画から武装が強化され、クルップ社製の施条砲などが多数搭載された。
日本への回航と戊辰戦争での運用
1866年(慶応2年)12月にオランダのフリシンゲンを出港した開陽丸は、大西洋やインド洋を経て、1867年4月(慶応3年3月)に無事横浜へ入港した。その後、幕府海軍の主力艦として運用され、鳥羽・伏見の戦いの勃発後は阿波沖海戦などで旧幕府側の艦艇として戦闘に参加した。
明治元年(1868年)4月の江戸城無血開城の後も新政府軍への譲渡を拒否した榎本武揚らは、同年8月に開陽丸を旗艦として品川沖を脱走。東北地方を経て蝦夷地へ渡り、箱館政権(いわゆる蝦夷共和国)の主力として松前や箱館の制圧に関与した。
江差沖での座礁と沈没
明治元年11月(1868年12月)、旧幕府軍による江差攻略の支援にあたっていた開陽丸は、江差沖において暴風雨(タバ風)に遭遇し、座礁した。救助活動や離礁の試みも失敗に終わり、最終的に船体は完全に沈没した。主力軍艦の喪失は旧幕府軍の海上優位性を大きく揺るがし、その後の箱館湾海戦の戦局にも多大な影響を与えた。
引揚げと復元
沈没から時を経た1975年(昭和50年)、江差町教育委員会を中心に水中・産業考古学の対象として発掘調査が本格化し、多数の遺留品が引き揚げられた。1990年(平成2年)4月には、江差町に史料館として開陽丸が原寸大で復元され、歴史を伝える施設として整備された。