革新倶楽部:大正時代の日本の政党の歴史と解散
📌 主なポイント
- ✓革新倶楽部は1922年11月8日に立憲国民党の解党を機に結成された。
- ✓犬養毅、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らが中心人物として参加した。
- ✓第二次護憲運動において護憲三派の一角として加藤高明内閣の成立に寄与した。
- ✓1925年5月の治安維持法の是非や政友会との合同を巡る対立から、右派と左派に分裂して解散した。
革新倶楽部(かくしんくらぶ、旧字体: 革新俱樂部)は、大正時代の日本において活動した帝国議会の政党である。立憲国民党の解党に伴い、非政友会系の政治家を糾合して結成され、のちに第二次護憲運動や護憲三派内閣への参加を経て、右派と左派の分裂により解散した。
結成の背景と政治的主張
1922年(大正11年)11月8日、立憲国民党を解党した犬養毅、尾崎行雄、島田三郎、古島一雄らを中心に46名で結成された。立憲国民党や無所属倶楽部、憲政会脱退派などの非政友会系勢力を合同し、当時絶対多数を占めていた立憲政友会に対抗する目的があった。
政治的立場としては自由主義左派を掲げ、普通選挙に基づく政党内閣制の確立、軍部大臣現役武官制の廃止、師団半減などの軍縮、知事公選、行財政整理、金解禁、義務教育の延長、両税委譲、労働および小作問題の立法的解決、ソビエト連邦の承認など、多岐にわたる改革政策を主張した。
護憲三派としての活動と政権参加
清浦奎吾内閣が成立すると、立憲政友会および憲政会とともに「護憲三派」を形成して第二次護憲運動を展開し、内閣打倒を果たした。第15回衆議院議員総選挙を経て発足した加藤高明内閣においては与党の一角を占め、犬養毅が逓信大臣として入閣し、古島一雄が同政務次官に就任した。
しかし、この総選挙において立憲政友会と憲政会の二大政党の間に埋没する形となり、革新倶楽部は議席を43から30へと大幅に減らした。これにより党内には将来に対する不安や両党への不信感が芽生え、財政面でも資金調達を担っていた鈴木梅四郎が病に倒れたことで困窮を極めた。犬養系とされていた中野正剛の憲政会への移籍もこの時期に発生している。
分裂と解散
1925年(大正14年)、治安維持法の是非を巡り党内対立が表面化した。閣僚として同法を推進しようとする犬養毅を中心とする右派に対し、尾崎行雄や清瀬一郎、大竹貫一らの左派は強く反対した。犬養は直系の星島二郎や植原悦二郎ら右派議員を率いて立憲政友会への合流を模索する。
同年5月10日の協議会で政友会との合同動議が提出されると、左派はこれに強く反対して党は分裂し、右派はすでに政党としての体をなしていないとして解党を決議した。5月14日には犬養ら右派18名が立憲政友会に合流した。一方、左派9名は新正倶楽部との連合を模索したものの後に再び分裂し、昭和期に入ってから一部が新たに革新党を結成した。
よくある質問
革新倶楽部はいつ結成されましたか?
革新倶楽部の主な結党メンバーは誰ですか?
革新倶楽部が解散した理由は何ですか?
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参考文献
- 木坂順一郎. 『日本大百科全書(ニッポニカ)』. コトバンク.
- 『世界大百科事典 第2版』. コトバンク.
- 玉井清「第一六回総選挙における政党合同の影響について-革新倶楽部系候補者の動向を中心に-」『法学研究 85-3』慶應義塾大学法学研究会, 2012年3月.