日本の元号
寛延 (元号)
寛延(かんえん)は、日本の元号の一つで、1748年から1751年までの期間を指します。桃園天皇の即位に伴う改元や、当時の主な出来事について解説します。
📌 主なポイント
- ✓寛延は1748年から1751年まで続いた日本の元号である。
- ✓桃園天皇の即位に伴い、延享から改元された。
- ✓寛延4年10月27日に宝暦へ改元された。
寛延(かんえん)は、日本の元号の一つ。延享の後、宝暦の前にあたり、1748年から1751年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、江戸幕府将軍は徳川家重であった。
改元
延享5年7月12日(グレゴリオ暦1748年8月5日)、桃園天皇の即位に伴う代始改元として寛延への改元が行われた。当初、朝廷は4月25日の改元を予定していたが、前将軍徳川家継の33回忌法要と重なることや、朝鮮通信使の来日中であることから幕府が強く反対した。結果として2ヶ月半の延期を経て改元が実施された[1]。
出典
元号の出典は『文選』の「開寛裕之路、以延天下之英俊也」から採られた。
寛延年間の主な出来事
- 寛延元年(1748年):人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』が大阪・竹本座で初演された。また、加賀騒動で配流されていた大槻伝蔵が自害した。
- 寛延2年(1749年):姫路藩で寛延一揆が発生した[6]。また、備後三次で稲生平太郎が怪奇現象に遭遇したとされ、後に『稲生物怪録』の題材となった[7]。池大雅が『陸奥奇勝図巻』を描いた[8]。
- 寛延3年(1750年):幕府が農民の苗字帯刀を改めて禁止し、寺社の富突きを禁止した。
- 寛延4年(1751年):田沼意次が側用取次に就任した[10]。
この時代の人物
寛延年間に誕生した著名な人物には、狂歌師・戯作者の大田南畝や、版元の蔦屋重三郎がいる。また、寛延3年には桜町上皇が崩御し、寛延4年には江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が死去した[9]。
よくある質問
寛延の由来は何ですか?
『文選』にある「開寛裕之路、以延天下之英俊也」という一節から採られています。
寛延の期間はいつからいつまでですか?
1748年から1751年までの期間です。
寛延の改元時に紛糾があったのはなぜですか?
当初の改元予定日が前将軍徳川家継の33回忌法要と重なり、さらに朝鮮通信使の来日中であったため、幕府が強く反対したためです。
関連記事
延享宝暦桃園天皇徳川家重徳川吉宗
参考文献
- 久保貴子「改元にみる朝幕関係」『近世の朝廷運営-朝幕関係の展開-』(岩田書院、1998年)
- 中田勇次郎『文人画論集』(中央公論新社、1982年)
- 武市佐市郎『武市佐市郎集 風俗事物編』(高知市民図書館、1995年)
- 山本博文編『見る、読む、調べる 江戸時代年表』(小学館、2007年)
- 兼本雄三「姫路藩寛延一揆の研究」(兵庫教育大学修士論文、1988年)
- 柏正甫『稲生物怪録』(KADOKAWA、2019年)
- e国宝「陸奥奇勝図巻」(国立文化財機構)