日本の元号
寛仁 (元号)
寛仁(かんにん)は、日本の平安時代、後一条天皇の代に使用された元号です。1017年から1021年まで続き、藤原道長が強く推した元号として知られています。
📌 主なポイント
- ✓寛仁は1017年から1021年まで使用された日本の元号である。
- ✓後一条天皇の代に使用された。
- ✓藤原道長が強く推した元号として知られ、改元にあたって文章博士らとの間で選定を巡る議論があった。
- ✓寛仁3年(1019年)に刀伊の入寇が発生した。
寛仁(かんにん)は、日本の元号の一つ。長和の後、治安の前にあたり、1017年から1021年までの期間を指す。この時代、第68代・後一条天皇が在位していた。
改元の経緯と藤原道長の関与
「寛仁」という元号は、藤原道長が強く執着したことで知られている。この元号は、1004年(長保6年・寛弘元年)の改元の際にも候補として挙げられていたが、当時の文章博士らにより、一条天皇の諱(懐仁)に含まれる「仁」の字を避けるべきとの意見があり、採用されなかった。
その後、1012年(寛弘9年・長和元年)の改元に際しても、道長は「寛仁」を勘申するよう文章博士の大江通直と菅原宣義に求めたが、両名は出典が見つからないことを理由に拒否した。しかし、道長から相談を受けた藤原実資は『漢書』の「寛仁愛人、意翻如也。」という記述を即答しており、当時の文章博士らが「寛仁」を避けた背景には、天皇の諱を避けるという慣習や、唐の故事にならった慎重な判断があったと推測されている。
1017年(寛仁元年)の改元においても、道長は再び「寛仁」を強く推した。通直や宣義は依然として勘申を拒んだが、式部大輔の藤原広業が「寛仁」を勘申し、左大臣・藤原顕光も天皇の諱と一文字重なる程度であれば避ける必要はないと主張したことで、最終的に新元号として採用された。
寛仁期に起きた主な出来事
- 1019年(寛仁3年):対馬国をはじめ、壱岐国、筑前国、肥前国が女真族の海賊による襲撃を受ける「刀伊の入寇」が発生した。
- 1020年(寛仁4年):前加賀守であった源政職が、自宅に押し入った群盗によって殺害される事件が発生した。
よくある質問
寛仁という元号はいつからいつまで使われましたか?
1017年(寛仁元年)から1021年(寛仁5年)まで使用されました。
なぜ寛仁という元号の選定は難航したのですか?
当時の天皇である一条天皇の諱(懐仁)に含まれる「仁」の字を避けるべきという慣習や、文章博士らが唐の故事にならって諱を避ける判断をしたため、選定に慎重な姿勢がとられました。
寛仁期に発生した有名な事件は何ですか?
1019年(寛仁3年)に発生した、女真族による襲撃事件である「刀伊の入寇」が挙げられます。
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参考文献
- 『御堂関白記』寛弘元年7月20日、『権記』同日、『小右記』長和元年12月25日
- 今浜通隆「『本朝麗藻』全注釈(十九)」, 『日本文学研究』23巻, 1987
- 『権記』寛仁元年4月23日
- 繁田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』文藝春秋、2020年