日本の元号

観応 (元号)

観応は、日本の南北朝時代に北朝が使用した元号の一つ。1350年から1352年までの期間を指し、観応の擾乱と呼ばれる足利氏の内紛と重なる時期である。

📌 主なポイント

  • 観応は日本の南北朝時代、北朝が使用した元号である。
  • 使用期間は1350年から1352年までである。
  • 足利尊氏と足利直義の対立である「観応の擾乱」と時期が重なる。
  • 『荘子』の一節を典拠としている。

観応(かんおう/かんのう)は、日本の南北朝時代に北朝が使用した元号の一つである。貞和の後、文和の前にあたり、1350年から1352年までの期間を指す。この時代は、室町幕府の将軍・足利尊氏とその弟・直義らの対立に端を発する観応の擾乱の最中にあり、政治的に極めて不安定な時期であった。

改元

1350年(貞和6年)2月27日、崇光天皇の即位に伴い改元が行われた。その後、1352年(観応3年)9月27日、後光厳天皇の即位により文和へと改元された。

由来

元号の出典は『荘子』外篇の「玄古之君、天下無為也、疏曰、以虚通之理、観応物之数、而无為」という一節に由来する。

歴史的背景

観応年間は、足利尊氏と足利直義の対立が激化した時期と重なる。1350年10月には直義が京都を脱出し、尊氏派との軍事衝突が本格化した。この内紛は「観応の擾乱」として知られ、幕府の統治体制を大きく揺るがした。

1351年(観応2年)には、一時的に南朝と北朝が和解する「正平一統」が成立した。この際、北朝の元号である「観応」は一時的に廃止されたが、翌1352年(観応3年)に南朝軍が京都から撤退した後、光厳・光明両上皇の母である広義門院の意向により「観応」の元号が回復された。

主な出来事

  • 1350年:足利直義が京都を脱出。
  • 1351年:足利直義が摂津国打出浜で尊氏方を破り、和睦。その後、正平一統により観応の元号が一時廃止。
  • 1352年:正平一統が破綻し、南朝軍が京都を占領。その後、観応の元号が回復される。

著名な人物の死去

観応年間には、以下の人物が死去している。

  • 卜部兼好(1350年/観応元年4月)
  • 夢窓疎石(1351年/観応2年9月、享年77)

よくある質問

観応の元号はいつからいつまで使われましたか?
1350年(貞和6年)から1352年(観応3年)まで使用されました。
観応の元号の出典は何ですか?
中国の古典『荘子』の一節「観応物之数」に由来しています。
観応の擾乱とは何ですか?
室町幕府の将軍・足利尊氏と、その弟で幕政を担っていた足利直義との間で発生した政治的・軍事的な対立のことです。

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参考文献

  • 『日本年号史大事典』
  • 『荘子』