静岡県の伊豆半島を流れる一級河川「狩野川」の地理・歴史・災害史

📌 主なポイント
- ✓狩野川は静岡県の伊豆半島を流れる延長46kmの一級河川である。
- ✓静岡県の主要な大河川の中で、北へ流れる特徴を持つ唯一の本川である。
- ✓1958年9月の狩野川台風により流域で甚大な人的・物的被害が発生した。
狩野川(かのがわ)は、静岡県の伊豆半島を流れる狩野川水系の本流であり、国によって指定された一級河川である。水系の流域面積は852平方キロメートルに及び、静岡県の総面積の約11パーセントを占めている。
地理的特徴と水系
伊豆半島の最高峰である天城山に端を発し、北へ向かって流れる。静岡県内の主要な大河川の中で、北流する性質を持つのは本川のみである。これは、かつて島であった伊豆半島がフィリピン海プレートの移動に伴って本州側のプレートに衝突し隆起した歴史的背景によるものである。
源流部にあたる天城山の北斜面は「天城山・水源の森」として水源の森百選に選定されており、年間降水量が3,000ミリメートルを超える多雨地帯である。豊富な水量と良好な水質を背景に、古くから林業やワサビ栽培などの産業を支えてきた。特に天城山の清流を利用したワサビ栽培は全国一の生産額を誇る。
下流部においては、田方平野を蛇行しながら流れ、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾へと注いでいる。また、一級水系の大河川でありながら、大支流である黄瀬川が形成した三島扇状地が存在するため、河口付近であっても川幅がそれほど広がらないという地理的な特徴を持っている。
名称の由来
狩野川という名称の由来には諸説が存在する。『日本書紀』の記述によれば、応神天皇5年(274年)に伊豆国で船が造られ、その名が「枯野(からの)」と称されたと伝えられており、それが軽野(かるぬ)から「カヌ」に転訛したという説が最も一般的である。現在でも伊豆市の湯ヶ島地区には、造船儀礼と深い関わりを持つ軽野神社が残されている。その他にも、焼畑農業を意味する「火野(かの)」に由来する説や、伊豆金山にちなんで「金川」と呼ばれていたものが変化したとする説が挙げられている。
歴史的変遷
縄文時代には、海水面が高かった「縄文海進」の影響により、現在の伊豆の国市付近まで海が入り込み「古狩野湾」と呼ばれる入江を形成していた。その後、海面の低下とともに狩野川が土砂を堆積させ、現在の田方平野が形成された。
中世以降、たびたび洪水を起こしながら流路を変えており、鎌倉時代には「守山開削」によって現在の流路に近い形へと整えられたと伝えられている。近代以降も、下流部の蛇行を解消するための捷水路の掘削や放水路の建設が進められてきた。
災害史と治水事業
狩野川流域は火山地帯に囲まれており、地質が脆弱で大雨の際に崩壊しやすいことから、古くから洪水被害が多発してきた。奈良時代以降も水害の記録が残されている。
狩野川台風と放水路の建設
1948年(昭和23年)のアイオン台風による被害を契機として、1951年(昭和26年)から中流部から駿河湾へ向かう「狩野川放水路」の建設が着手された。しかし、その完成を待たずして、1958年(昭和33年)9月26日に「狩野川台風」(台風22号)が伊豆半島を襲い、流域において死者・行方不明者が多数発生する甚大な被害をもたらした。放水路はその後1965年(昭和40年)に完成している。
持越鉱山鉱滓ダムの決壊
1978年(昭和53年)に発生した伊豆大島近海の地震では、天城湯ヶ島町(現伊豆市)にあった持越鉱山の鉱滓ダムが決壊し、シアン化合物を含む鉱滓が支流の持越川を経て狩野川へ流出する事故が発生した。その後、懸命な除染作業によって現在は清流を取り戻している。
よくある質問
狩野川の源流はどこですか?
狩野川が北へ流れるのはなぜですか?
狩野川放水路はいつ完成しましたか?
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参考文献
静岡県ホームページ及び関連自治体資料