片山潜:日本における労働運動と社会主義の先駆者

📌 主なポイント
- ✓1859年、美作国(現在の岡山県)に生まれる。
- ✓1897年に日本初の隣保館「キングスレー館」を設立した。
- ✓1903年の第二インターナショナル大会に出席し、反戦を訴えた。
- ✓1921年にソビエト連邦へ渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部を務めた。
- ✓日本人として唯一、モスクワのクレムリンの壁墓所に埋葬されている。
片山潜(かたやま せん、1859年12月26日(安政6年12月3日) - 1933年(昭和8年)11月5日)は、日本の労働運動家、社会主義者、マルクス主義者、思想家、社会事業家である。号は深甫。日本における初期の労働組合運動や社会主義運動の中心人物として活動し、晩年は国際的な共産主義運動に身を投じた。

生涯と初期の経歴
美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町)に庄屋藪木家の次男として生まれる。幼名は菅太郎。1877年10月に親戚の養子となり、安達清風の私塾で学んだ後、1880年に岡山師範学校に入学したものの翌年に退学して上京した。

1884年に渡米し、サンフランシスコやアラメダなどで働きながら苦学する。アラメダでキリスト教と出会い、1886年11月に洗礼を受けた。その後、メリーヴィル大学、グリンネル大学、アンドーヴァー神学校、イェール神学校などで学び、社会的キリスト教の感化を受けて西洋古典学などを修め、1896年に帰国した。

労働運動と社会主義活動
帰国後、高野房太郎らとともにイギリスを源流とするセツルメント運動に共感し、1897年3月1日に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を神田区三崎町に設立した。同年12月1日には『労働世界』を創刊して主筆を務め、職工義勇会(労働組合期成会)の設立に重要な役割を果たした。

1901年5月には日本最初の社会主義政党である社会民主党の結成に加わった(即日禁止)。1903年には万国社会党(第二インターナショナル)の第6回大会に出席し、日露戦争の最中にあってロシア代表のプレハーノフとともに労働者の反戦を訴え、副議長に選出された。
海外亡命とコミンテルンでの活動
1911年の東京市電ストライキの指導に関与したとして逮捕され投獄されたが、1912年9月の大赦により出獄。1914年9月にアメリカへ亡命した。1917年のロシア革命を契機にマルクス・レーニン主義に傾倒し、アメリカ共産党やメキシコ共産党の結党に尽力した。
1921年にソビエト連邦へ渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる。国外から日本共産党の結党を指導し、国際反帝同盟を通じて反戦運動に従事した。

1933年11月5日、入院先のモスクワ市内の病院で敗血症のため死去。享年73。モスクワの赤の広場にあるクレムリンの壁墓所に埋葬された。

よくある質問
片山潜はどのような人物ですか?
キングスレー館とは何ですか?
片山潜はどこで亡くなりましたか?
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参考文献
- 辻野功「片山潜」『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年、p297
- 山内昭人『初期コミンテルンと在外日本人社会主義者 越境するネットワーク』ミネルヴァ書房、2009年
- 『国民年鑑 昭和10年』国民新聞社、1934年、p.550