加藤高明の生涯と政党政治への貢献

📌 主なポイント
- ✓加藤高明は1860年に尾張国で生まれ、東京大学法学部を首席で卒業した。
- ✓外交官として駐英公使や複数度の外務大臣を務め、日英同盟の推進などに尽力した。
- ✓1924年に第24代内閣総理大臣に就任し、護憲三派内閣を率いて普通選挙法を成立させた。
加藤 高明(かとう たかあき、1860年1月25日〈安政7年1月3日〉 - 1926年〈大正15年〉1月28日)は、日本の外交官、政治家。位階勲等爵位は正二位大勲位伯爵。学位は法学士(東京大学・1881年)。外務大臣、貴族院議員、衆議院議員、第24代内閣総理大臣、憲政会総裁などを歴任し、大正期の政党政治の確立に大きな足跡を残した。
生い立ちと三菱時代
尾張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として生まれた。幼名は総吉。明治5年(1872年)に加藤家の養子となり、明治7年(1874年)に高明と改名した。名古屋藩立洋学校、東京外国語学校を経て、明治14年(1881年)7月に東京大学法学部を首席で卒業した。
大学卒業後は三菱に入社しイギリスへ渡る。帰国後は三菱本社副支配人を務め、明治19年(1886年)には岩崎弥太郎の長女・春路と結婚した。この経歴から、のちに政敵から「三菱の大番頭」と評されることになった。
官界から政界への進出、外交官としての活躍
明治20年(1887年)に官界入りを果たし、外務大臣・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任した。明治33年(1900年)には第4次伊藤内閣の外相に就任し、日英同盟の締結推進に尽力した。その後も東京日日新聞社長、第1次西園寺内閣の外相、駐英公使、第3次桂内閣の外相などを歴任し、外交分野で手腕を発揮した。
大正2年(1913年)には桂太郎による立憲同志会の結成に参画し、桂の急死後に同志会の総理に選出された。翌年の第2次大隈内閣では外相として第一次世界大戦への参戦や対華21ヶ条要求への対応にあたった。
護憲三派内閣と内閣総理大臣としての実績
第二次護憲運動の高まりを受け、第15回衆議院議員総選挙で護憲三派が圧勝した後の大正13年(1924年)6月11日、加藤は第24代内閣総理大臣に就任した。立憲政友会、憲政会、革新倶楽部による護憲三派内閣を率い、選挙公約であった普通選挙法の成立や、日ソ基本条約の締結によるソ連との国交樹立といった重要な成果をあげた。一方で、労働運動の活発化や共産主義運動への対策として治安維持法を成立させ、中等学校以上における学校教練の創設なども行った。
晩年と急逝
護憲三派の崩壊後、大正14年(1925年)8月には憲政会単独内閣を組織した。しかし大正15年(1926年)1月22日、帝国議会内で肺炎をこじらせて倒れ、同月28日に66歳で現職のまま死去した。死後、伯爵に陞爵し、大勲位菊花大綬章が追贈された。
よくある質問
加藤高明の主な経歴は何ですか?
加藤高明内閣の最大の業績は何ですか?
加藤高明はどのようにして亡くなりましたか?
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参考文献
- 『池上彰と学ぶ日本の総理 22 加藤友三郎・清浦奎吾・加藤高明』小学館、2012年。
- 伊藤正徳編『伝記・加藤高明 上下巻』大空社、1995年。
- 奈良岡聡智『加藤高明と政党政治 二大政党制への道』山川出版社、2006年。