大正時代の流行歌『カチューシャの唄』の歴史と社会的影響
📌 主なポイント
- ✓『カチューシャの唄』は1914年(大正3年)に発表された日本の歌謡曲である。
- ✓作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平が手掛けた。
- ✓劇団芸術座の舞台公演『復活』の劇中歌として使用され、主演の松井須磨子が歌唱して大流行した。
- ✓日本における初期の蓄音機連動式トーキー映画の題材ともなった。
カチューシャの唄(カチューシャのうた)は、1914年(大正3年)に発表された日本の歌謡曲である。レフ・トルストイの小説『復活』を原作として劇団芸術座が上演した舞台の劇中歌として制作され、主演女優の松井須磨子などが歌唱した。楽曲の作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平が手掛けた。
成立背景と制作過程
劇団芸術座の第3回公演として上演された『復活』において、劇中歌として取り入れられたのが本楽曲である。作詞を手掛けたのは島村抱月と相馬御風であり、当初は島村が作詞を進めていたもののうまくいかず、新潟県糸魚川出身の相馬御風が2番以降の歌詞をまとめる形をとった。
作曲を担当した中山晋平にとって、本楽曲は作曲家として世に広く知られる契機となった記念碑的な作品である。島村抱月からの「学校の唱歌ともならず、西洋の賛美歌ともならず、日本の俗謡とリードの中間のような旋律」「誰にでも親しめるもの」という要望に応えるため試行錯誤を重ね、詞の合間に「ララ」という合いの手を織り交ぜる独自の構成を完成させた。楽曲はヨナ抜き音階を用いた伝統的な日本的表現と、西洋音楽の手法を取り入れている。
社会的大流行とメディア展開
『復活』の舞台公演は当初苦戦したものの、地方公演を含めて大きな成功を収め、劇中で歌われた「カチューシャの唄」は大衆の間で爆発的な流行を見せた。歌詞の一節である「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は当時の流行語となった。
東洋蓄音器(オリエント・レコード)は、松井須磨子の歌声を収録したレコードを発売し、当時の高いレコード価格や普及率の中にあっても広く流通した。また、竹久夢二が表紙を手掛けた楽譜や、演歌師が扱う歌本なども発行され、鉄道唱歌以来の売れ行きを記録したとされる。さらに、学生の間での過度な流行から、一部の学校では歌唱禁止令が出されるなどの社会的現象に発展した。
映画および文化への展開
1914年8月には、エジソンが発明したキネトフォンを用いた短篇映画『カチューシャの唄』が日本座で公開された。これはサイレント映像に蓄音機を連動させた初期のトーキー作品であり、舞台の背景の前で松井須磨子が歌う姿が収められた。同年には日活向島撮影所による劇映画『カチューシャ』も製作され、記録的なヒット作となった。
現在においても、長野県中野市の中山晋平記念館に歌碑が建立されているほか、新潟県糸魚川市や島根県浜田市などの自治体間における「知音都市交流」の象徴として、定時放送や駅の発車メロディー等に活用されるなど、大正期の文化遺産としてその足跡を残している。
よくある質問
『カチューシャの唄』の作詞・作曲者は誰ですか?
この楽曲が最初に披露されたのは何ですか?
どのようなメディアで広まりましたか?
関連記事
参考文献
斉藤武雄『カチューシャの唄、永遠に』郷土出版社、1996年。