日本における江戸時代の元号「嘉永」の詳細解説
📌 主なポイント
- ✓嘉永は弘化の後、安政の前に位置する日本の元号であり、1848年から1855年までの期間を指す。
- ✓嘉永6年(1853年)にアメリカのペリー提督が浦賀沖に来航し、日本に開国を迫った。
- ✓嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結され、また相次ぐ地震や災害を背景に安政への改元が行われた。
嘉永(かゑい)は、日本の元号の一つである。弘化の後を受け、安政の前に位置する。期間としては1848年から1855年までの約8年間を指し、孝明天皇の即位に伴う代始改元として定められた。当時の江戸幕府将軍は徳川家慶および徳川家定である。
改元の背景と由来
弘化5年2月28日(グレゴリオ暦1848年4月1日)、孝明天皇の即位に伴い改元が行われた。朝廷側では「万延」や「明治」などの候補を含む7つの案から検討を行い、最終的に「天久」と「嘉永」の2案に絞り込んだ。朝廷の内意としては「天久」を希望していたが、幕府側が「嘉永」を強く推して譲らなかったため、最終的に朝廷がそれに従う形で決定された。
元号の出典は、中国の歴史書である『宋書』楽志の一節「思皇享多祐、嘉楽永無央(皇を思い多く享くれば、嘉を祐け、楽永く央くる無し)」に由来している。
嘉永年間の主な出来事
嘉永年間は、幕末の動乱期へと直結する重大な国内外の事件が相次いだ激動の時代であった。海外では、嘉永元年(1848年)にヨーロッパ諸国で「諸国民の春」と呼ばれる自由主義・国民主義的な革命運動の波が広がった。
国内においては、嘉永6年(1853年)2月2日に小田原地震が発生して小田原城が大き大な被害を受けたほか、同年6月3日(グレゴリオ暦1853年7月8日)にはアメリカ東インド艦隊のペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀沖に来航した。これに続き、同年7月にはロシアのプチャーチンも長崎に来航し、日本に対して開国と通商を強く要求した。
このペリー来航に対応するため、江戸幕府の老中首座であった阿部正弘は、朝廷をはじめ外様大名や市井に至るまで広く対応策を下問した。また、西洋の情勢や造船・操船・測量技術を吸収するため、中濱萬次郎(ジョン万次郎)を招聘して直参旗取りの身分を与え、軍艦教授所教授に任命した。さらに、品川沖にはペリー来航を契機とした防御用の砲台(お台場)の建設が開始された。
災害と改元
嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結されたが、同年は日本各地で大規模な災害が頻発した。京都の大火や伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震、豊予海峡地震などが相次ぎ発生した。これらの度重なる災異や黒船来航などの混乱を収めるため、同年11月27日(グレゴリオ暦1855年1月15日)に「安政」へと改元が行われた。
嘉永年間の主な人物の生没
嘉永年間には、後の明治維新や近代日本の礎を築いた多くの要人が誕生し、また時代の転換期を前にして去っていった。
誕生
- 西園寺公望(嘉永2年)
- 清浦奎吾(嘉永3年)
- 明治天皇(嘉永5年)
- 寺内正毅(嘉永5年)
- 山本権兵衛(嘉永5年)
- 高橋是清(嘉永7年)
死去
- 葛飾北斎(嘉永2年)
- 高野長英(嘉永3年)
- 国定忠治(嘉永3年)
- 水野忠邦(嘉永4年)
- 徳川家慶(嘉永6年)