日本の元号

建武 (日本)

日本の元号の一つである「建武」の歴史的背景、南朝と北朝における期間の違い、および建武の新政期に起きた主な出来事について解説します。

📌 主なポイント

  • 建武は日本の元号の一つであり、南朝方では1334年から1336年、北朝方では1334年から1338年まで使用された。
  • 元号の由来は中国・後漢の光武帝の治世である「建武」から採られている。
  • 足利尊氏の離反や建武の新政の崩壊、そして南北朝時代の分裂という大きな歴史的転換点が含まれている期間である。

建武(けんむ、旧字体:建󠄁武)は、日本の元号の一つ。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による親政(建武の新政)が始まった時期にあたる。南北朝時代の分裂に伴い、南朝方と北朝方で適用された期間や定義が異なるのが特徴である。

概要と歴史的背景

大覚寺統(南朝方)においては元弘の後、延元の前で、1334年から1336年までの期間を指す。一方、持明院統(北朝方)においては正慶の後、暦応の前で、1334年から1338年までの期間を指している。当時の天皇は、南朝方が後醍醐天皇、北朝方が光明天皇であった。

元弘3年/正慶2年(1333年)5月に鎌倉幕府が打倒された後、後醍醐天皇は京都へ戻る途上で光厳天皇の即位と「正慶」の元号の無効を宣言した。その後、親政を開始した后、元弘4年1月29日(ユリウス暦1334年3月5日)に勅旨を出し、「建武」への改元を行った。

由来

元号の由来は、中国の漢王朝において王莽を倒し王朝を復興した光武帝の治世である後漢の「建武」(25年 - 56年)から取られたものである。

建武期の主な出来事

建武年間には、足利尊氏の離反や武家政権の再編など、日本の歴史の転換点となる数々の重要な出来事が発生した。

  • 1334年(建武元年): 11月に護良親王が鎌倉へ幽閉される。
  • 1335年(建武2年): 6月に西園寺公宗の政権転覆計画が発覚。7月には信濃国で中先代の乱が起き、鎌倉が攻略される中で足利直義が護良親王を殺害した。同年8月には足利尊氏が時行討伐のために鎌倉へ向かい、そのまま建武政権から離反した。
  • 1336年(建武3年/延元元年): 1月に足利尊氏が京都へ入り、後醍醐天皇は比叡山へ逃れる。その後、湊川の戦いで新田義貞・楠木正成軍が敗れ、光明天皇が即位して北朝が開かれた。後醍醐天皇は吉野へ逃れて南朝をひらき、南北朝時代が本格的に幕を開けた。

よくある質問

建武という元号はいつからいつまで使われましたか?
南朝方では1334年から1336年まで、北朝方では1334年から1338年まで使用されました。
建武の元号の由来は何ですか?
中国の漢王朝を復興した光武帝の元号である「建武」(25年 - 56年)に由来しています。
建武の期間中にどのような政変が起きましたか?
後醍醐天皇による建武の新政が開始されましたが、足利尊氏との対立(建武の乱)により数年で崩壊し、南北朝の分裂へとつながりました。

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参考文献

日本歴史学会編『日本史出土・伝承事典』および各種史料に基づく。