憲政の常道:大日本帝国憲法下における政党政治の慣例
📌 主なポイント
- ✓憲政の常道は、大正末期に元老・西園寺公望の主導で確立された政党政治の慣例である。
- ✓原則として、衆議院第一党の党首を首相に任命し、政権運営の不手際がない限り政権を継続させることを目指した。
- ✓1932年の五・一五事件を契機に、政党人による内閣が成立しなくなり、事実上崩壊した。
憲政の常道(けんせいのじょうどう)とは、大日本帝国憲法下において、衆議院の第一党の党首を内閣総理大臣に任命し、政党政治を円滑に運営するための慣例を指す言葉である。大正末期から昭和初期にかけて、元老である西園寺公望の主導により、政党政治の自律的な運用を目指して確立された。
成立の背景と原則
大日本帝国憲法下では、首相の任命権は天皇に属していたが、実際には元老の合議によって人選が行われていた。大正末期、衆議院における二大政党(立憲政友会と憲政会)の勢力が強まる中、元老の高齢化に伴い、機械的かつ自律的な首相任命の基準が必要となった。
この慣例において確立された主な原則は以下の通りである。
- 衆議院議員総選挙で第一党となった政党の総裁を首相に任命する。
- 政権運営の不手際により首相が辞任した場合は、野党第一党の総裁に大命降下を行う。
- 病気などの不可抗力で首相が辞任した場合は、与党内で後継者を選定し、政権を継続させる。
- テロや陰謀による政権交代は、民意を反映しない悪例として認めない。
運用と崩壊
この慣例は、加藤高明内閣から濱口内閣にかけての時期に一定の定着を見せた。しかし、普通選挙の実施に伴う政党の資金需要の増大と、それに伴う汚職事件の頻発は、政党政治への批判を招いた。昭和恐慌による社会不安の中、軍部や国家主義団体による政党政治打倒の動きが活発化した。
1931年の満洲事変以降、若槻礼次郎内閣が安達謙蔵内相の造反により総辞職した際、西園寺元老は政友会の犬養毅を推挙し、かろうじて常道を維持した。しかし、1932年の五・一五事件で犬養首相が暗殺されると、政友会内部の混乱もあり、政党政治の自律的な政権維持能力が疑問視された。結果として、西園寺元老は非政党人である斎藤実を推挙し、挙国一致内閣が成立したことで、憲政の常道は事実上崩壊した。
戦後の状況
第二次世界大戦後の1946年、第22回衆議院議員総選挙を経て日本自由党の鳩山一郎に大命降下が行われ、一時的に慣例が復活した。日本国憲法下では、国会議員の投票により首相が指名されるため、比較第一党から首相が選出される形式が定着したが、野党第一党への政権交代を前提とした慣例としての「憲政の常道」は、55年体制の成立とともにその意義を大きく変化させた。
よくある質問
憲政の常道とは何ですか?
なぜ憲政の常道は崩壊したのですか?
戦後も憲政の常道は続いていますか?
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参考文献
- 八木秀次『憲政の常道』2002年
- 倉山満『帝国憲法講義』
- 精選版 日本国語大辞典「憲政の常道」
- 世界大百科事典「帝国議会」