日本の政党史
憲政党(明治時代の政党)
明治時代に自由党と進歩党が合同して結成された政党「憲政党」の歴史。日本初の政党内閣である第1次大隈内閣の成立から、その後の分裂、立憲政友会への合流までを解説します。
📌 主なポイント
- ✓1898年6月22日に自由党と進歩党が合同して結成された。
- ✓日本初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)を組織した。
- ✓1898年10月に旧自由党側が憲政党を解党し、同名の新政党を再結成して旧進歩党を排除した。
- ✓1900年9月13日に解党し、その多くが立憲政友会へ合流した。
憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本に存在した政党である。1898年(明治31年)に当時の二大政党であった自由党と進歩党が合同して結成された。日本初の政党内閣である第1次大隈内閣を組織したが、内部対立により短期間で分裂した。
結成と第1次大隈内閣
1898年6月、藩閥政府と対立していた自由党(板垣退助総理)と進歩党(大隈重信党首)は、第6回衆議院議員総選挙を前に合同し、憲政党を結成した。この巨大政党の出現により、藩閥側は政権運営が困難と判断し、大隈重信と板垣退助に組閣の大命が下った。これにより、日本史上初の政党内閣である第1次大隈内閣(いわゆる「隈板内閣」)が発足した。
分裂とその後
しかし、旧自由党と旧進歩党の間の政策的・人脈的な隔たりは大きく、党運営や大臣ポストの配分を巡って激しい対立が生じた。同年8月に発生した「共和演説事件」が引き金となり、内閣内の不協和音は決定的となった。10月、旧自由党側が旧進歩党を出し抜く形で憲政党の解党を強行し、直後に旧自由党のみで同名の「憲政党」を再結成した。これにより第1次大隈内閣は崩壊し、旧進歩党側は「憲政本党」を結成して対抗した。
立憲政友会への合流
再結成された自由派の憲政党は、第2次山縣内閣において閣外協力の体制をとった。しかし、山縣内閣との連携も次第に困難となり、1900年(明治33年)には伊藤博文が主導する新党構想に呼応する形で、憲政党は解党した。その後、旧自由党系の勢力は伊藤を総裁とする立憲政友会へと合流し、明治後期の政党政治の一翼を担うこととなった。
よくある質問
憲政党はいつ結成されましたか?
1898年(明治31年)6月22日に結成されました。
なぜ憲政党は短期間で分裂したのですか?
旧自由党と旧進歩党という、地盤や政治思想が異なる二つの政党が合同したため、党運営や大臣ポストの配分を巡る内部対立が絶えなかったことが主な要因です。
憲政党の解党後、旧自由党系の勢力はどうなりましたか?
1900年に伊藤博文が結成した立憲政友会に合流しました。
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参考文献
- 宇野俊一ほか編 『日本全史(ジャパン・クロニック)』 講談社、1991年。
- 升味準之輔『新装版 日本政党史論 2』東京大学出版会、2011年。