キドカラー号(戦後日本初の商業用軟式飛行船)
📌 主なポイント
- ✓キドカラー号は戦後日本で初めて商業運航された軟式飛行船である。
- ✓スポンサーは日立製作所で、カラーテレビ「キドカラー」の宣伝に用いられた。
- ✓もとはアメリカ海軍の練習船として1942年に就航した中古機であった。
- ✓1969年4月4日夜、徳島市での係留中に暴風によりガスを放出せざるを得なくなり消滅した。
キドカラー号(登録記号:JA1001)は、1968年から1969年にかけて日本国内で運航された、第二次世界大戦後初となる民間チャーターおよび商用の軟式飛行船である。
一般には「日立キドカラー号」の通称で広く知られた。これは、電機メーカーの日立製作所が自社のカラーテレビの商標名「キドカラー」の宣伝・広報を目的として、飛行船広告のスポンサーを務めたことに由来する。
歴史と経緯
本機はアメリカ合衆国で製造されたグッドイヤー社製のL級軟式飛行船(TZ123000型、L-0019号)であり、1942年にアメリカ海軍の練習船として就航した。その後、1955年に民間に払い下げられ、1956年には西ドイツへ渡った。1957年からは同国の百貨店シュバーブ社が広告用として運用(登録記号:D-LISA号)していた。
日本国内では1964年頃から飛行船事業の構想があったものの、巨額の費用が障壁となり交渉は難航した。しかし1967年にシュバーブ社がアメリカのシンガー社に買収されたことを機に、日本飛行船株式会社の関係者が買収へと方針を切り替え、50万マルクで取得が成立した。
数々の紆余曲折を経て、日立製作所が日本初の飛行船広告スポンサーに決定。機体は5個の木箱に梱包されて1968年7月初めに名古屋港へ到着し、川崎重工業各務原飛行場での組み立てやガス注入作業を経て、同年9月1日に日本国内での初飛行を成功させた。
運航と社会的影響
1968年10月18日の営業飛行開始以降、機体に搭載されたスピーカーからザ・ピーナッツが歌う「日立キドカラーの歌」を流しながら日本各地を巡った。飛来先では数百台の自動車や数千人の見物客が殺到して交通渋滞や大騒動が起きるなど、日本国内で大きな「飛行船フィーバー」を巻き起こした。
機体の喪失とその後
1969年4月4日の夜、徳島県徳島市津田海岸町の埋め立て地で係留中だったキドカラー号は、風速30メートルを超える猛烈な暴風に見舞われた。マストのワイヤが切れて機体が激しく揺れ動いたため、スタッフがやむを得ずリップパネルを開いてガスを放出し、機体は失われた。
この事故ののち、日立製作所の宣伝活動は宣伝列車「日立ポンパ号」へと引き継がれ、日本飛行船株式会社も解散した。しかし広告媒体としての飛行船への関心は残り、1971年にはオリエント飛行船株式会社によって「レインボー号」が運航されるなど、後続の事業へとつながっていった。