日本近代医学の先駆者:志賀潔の生涯と赤痢菌発見の業績

📌 主なポイント
- ✓1871年、陸前国宮城郡仙台に生まれ、のちに志賀家の養子となった。
- ✓1897年に赤痢の病原菌である赤痢菌を発見し、その属名には「Shigella」の名が付けられた。
- ✓ドイツ留学時にパウル・エールリヒに師事し、化学療法や免疫学の研究に貢献した。
- ✓1944年に文化勲章を受章し、1957年に宮城県で亡くなった。
志賀潔(しが きよし、1871年2月7日(明治3年12月18日) - 1957年(昭和32年)1月25日)は、日本の医学者・細菌学者である。赤痢菌の発見者として世界的に知られ、明治時代の日本における近代科学研究の礎を築いた先駆者の一人である。主要な病原細菌の学名に日本人の名が冠されている数少ない例として、その属名に「Shigella」の名が残されている。

生い立ちと修学期
1871年、陸前国宮城郡仙台(現在の宮城県仙台市)にて、仙台藩士・佐藤信の三男として生まれた。幼名は直吉。1878年に母親の実家である志賀家の養子となり、名を潔と改めた。志賀家は仙台藩の藩医を務める家柄であった。
地元の学校を経て第一高等中学校に進学し、1892年に帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)へ入学した。医学の道を志した志賀は、のちに日本の細菌学の父と呼ばれる北里柴三郎の下で学ぶこととなる。
赤痢菌の発見と細菌学研究
1896年に帝国大学医科大学を卒業後、大日本私立衛生会伝染病研究所に入所して北里柴三郎に師事した。当時、猛威を振るっていた赤痢の原因究明に取り組み、1897年に赤痢菌を発見した。
発見の成果は同年の『細菌学雑誌』に日本語で発表され、1898年には要約論文がドイツ語で発表された。この業績により、赤痢菌の属名は志賀に因んで「Shigella」と命名された。北里柴三郎は若き志賀の功績を称え、助手であった志賀単独の名前で論文を発表させるなど、その才能を高く評価した。

ドイツ留学と化学療法への貢献
1901年からドイツ・フランクフルトに留学し、パウル・エールリヒの下で免疫学や化学療法を研究した。ベンチジン系赤色色素の治療効果を明らかにし、トリパンロートと命名するなどの成果を上げた。1905年に帰国し医学博士の学位を取得したのち、脚気に関する追実験を行って当時有力視されていた脚気細菌起源説を否定するなど、多方面で科学的検証を行った。
1914年に北里柴三郎らが伝染病研究所を辞職した際にはそれに追随し、翌1915年に新設された北里研究所に入所した。
朝鮮での活動と京城帝国大学
1920年に慶應義塾大学医学部教授に就任したものの、同年秋には朝鮮総督府医院長および京城医学専門学校長へ転じた。1924年にはヨーロッパへ渡航し、アルベール・カルメットからBCGワクチンの株を直接分与されて日本へ持ち帰った。
1926年には新設された京城帝国大学の医学部長に就任し、1929年には同大学の総長となった。しかし、1930年の開学記念講演における発言を巡り学内から疑義や非難が生じたことをきっかけに、任期を満たさず総長を辞任した。

晩年と栄誉
1931年に内地へ戻り、北里研究所顧問に就任した。1945年の東京大空襲で被災して家財を失い、その後は郷里である宮城県に戻って生活を送った。生涯を通じて清貧を貫き、質素な暮らしを守り通したことで知られる。
1944年には文化勲章を受章し、仙台市名誉市民にも選ばれた。1957年1月25日、宮城県亘理郡坂元村(現在の山元町)の自宅にて老衰のため85歳で死去した。