明治初期の徳島藩における対立事件:庚午事変の経緯と影響
📌 主なポイント
- ✓庚午事変は明治3年5月13日(1870年6月11日)に発生した徳島藩内の武士による襲撃事件である。
- ✓事件の背景には、徳島藩主家と筆頭家老稲田家との身分や処遇をめぐる長年の確執があった。
- ✓事件の結果、淡路島は徳島県から離れ、兵庫県に編入されることとなった。
- ✓事件の主謀者らに対する処分として切腹刑が執行され、これは明治初期における数少ない切腹刑の事例となった。
- ✓稲田家の家臣団はその後、北海道の静内などへの移住と開拓を命じられた。
庚午事変(こうごじへん)は、明治3年5月13日(1870年6月11日)に当時の徳島藩の領地であった淡路洲本城下などで発生した、徳島藩士による筆頭家老・稲田家の屋敷や学問所への襲撃事件である。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。
歴史的背景
稲田家の祖である稲田植元は、蜂須賀正勝(小六)とともに織豊政権に仕えた。蜂須賀家の阿波入府に際して、植元は蜂須賀家の筆頭家老に任じられ、脇城を守った。蜂須賀至鎮の代に淡路国が加増されると、稲田家は洲本城の城代となり、1万4千石を領して約3000人の家臣を擁していた。
しかし、幕藩体制が進むにつれて両者の関係は対等なものから主従関係へと変化し、徳島藩側との間に様々な確執が生じるようになった。幕末期には、徳島藩が佐幕派であったのに対し、稲田家側は尊王派として活動し、両者の対立はさらに深まった。
明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島藩の直参家臣は士族とされたが、陪臣である稲田家の家臣は卒族とされた。これに納得しない稲田家臣は、自分たちの士族編入を徳島藩に求めたが受け入れられず、最終的に淡路島を徳島藩から独立させて稲田氏を知藩事とする独立を目指すようになった。
事件の経緯
明治3年5月13日、稲田家側の独立工作や一連の動きに反発した徳島藩側の一部過激派が行動を起こした。一団は脇町の稲田屋敷へ向かったが、新政府からの命令によって引き返した。一方、別の一団は洲本城下の稲田家およびその家臣の屋敷を襲撃し、死者や多数の負傷者、家屋の焼失などの被害を出した。
政府の対応と処分
中央集権化を進める明治政府にとって、この事件は慎重な対処を要する重大な問題であった。政府による調査の結果、徳島藩側の主謀者に対して厳しい処分が下された。
小倉富三郎や新居水竹ら主謀者に対しては斬首の判決が下され、後に藩主・蜂須賀茂韶の嘆願により切腹となった。また、多数の関係者が八丈島への終身流刑や禁固などの処罰を受けた。知藩事であった蜂須賀茂韶や参事らも謹慎処分となった。なお、これらの処罰において行われた切腹刑は、明治時代初期における数少ない死刑としての切腹事例の一つとなった。
事件がもたらした影響
この事件の結果として、洲本を含む津名郡(稲田氏知行地)は翌明治4年(1871年)5月に徳島県から離れ、兵庫県に編入された。その後、明治9年(1876年)の第2次府県統合により、淡路島全域が兵庫県に移管されることとなった。
また、被害を受けた稲田家臣団に対しては、兵庫県管轄の士族として北海道の静内および色丹島への移住開拓が命じられ、彼らは北の大地へと旅立った。この北海道への移住開拓や事件の経緯は、後世の小説や映画などの題材としても取り上げられている。
よくある質問
庚午事変とは何ですか?
庚午事変が起きた主な原因は何ですか?
事件の結果、淡路島はどうなりましたか?
事件に関わった稲田家臣団はそのあとどうなりましたか?
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参考文献
- 『徳島県史第5巻』
- 東京都教育委員会「徳島藩士の墓」
- 石川県立図書館「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた本多政均暗殺についてのレファレンスデータ
- 阿波郷土会『庚午事変とその前後』1961年