小御所会議の歴史的背景と展開

📌 主なポイント
- ✓小御所会議は慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都御所の小御所で開催された。
- ✓王政復古の大号令によって新設された三職による最初の国政会議である。
- ✓徳川慶喜の官位辞退および徳川宗家領の辞官納地が議論された。
小御所会議(こごしょかいぎ)は、江戸時代末期の慶応3年12月9日(1868年1月3日)に京都御所の小御所において開催された重要国政会議である。同日に発せられた王政復古の大号令によって新たに設置された三職(総裁・議定・参与)による最初の会議であり、大政奉還を行った徳川慶喜の官位辞退および徳川宗家領の削封(辞官納地)を主な議題として議論された。
背景と大政奉還後の政局
薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛らは、従来の公議政体路線から武力倒幕路線へと舵を切り、岩倉具視らと連携して朝廷工作を進めていた。一方、土佐藩の後藤象二郎らは武力衝突を回避するため、徳川慶喜による大政奉還を主導した。慶喜は、幼い明治天皇を戴く朝廷には政権担当能力がなく、やがて設置されるであろう諸侯会議で自らが主導権を握れるという目論見のもとで政権返上を行った。
しかし、倒幕派は閉塞状況を打破すべくクーデター計画を断行し、慶応3年12月9日未明に王政復古の大号令が発せられた。これにより摂政・関白および征夷大将軍職が廃止され、新たな政治体制の樹立が宣言された。
小御所会議の展開
同日18時頃から開始された小御所会議には、三職に任ぜられた公家や諸侯が参席した。会議では、徳川慶喜に対する辞官納地を求める意見が公家側から出された。これに対し、議定の山内容堂は慶喜を欠席させたままの処分案を「陰険である」と強く批判した。大久保利通や岩倉具視は徳川家の罪状を挙げてこれに反論し、激論が交わされた。
会議の趨勢は一時は徳川家に寛大な許容論へと傾きかけたが、一時休憩を挟んだ後、岩倉らの強い姿勢や妥協を促す動きもあり、最終的には慶喜へ辞官納地の決定を伝え、慶喜が自発的にこれを申し入れるという形式をとることで決着した。
以後の政局への影響
小御所会議で辞官納地が決定されたものの、親幕派諸藩の執拗な抵抗により、その内容は次第に骨抜きとなっていった。鳥羽・伏見の戦いに至るまで倒幕派が完全に主導権を握ることは難しく、政局は複雑な経過をたどることとなった。
よくある質問
小御所会議はいつ行われましたか?
小御所会議の主な議題は何でしたか?
小御所会議で対立した主な人物は誰ですか?
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参考文献
- 『明治天皇紀』一巻
- 『徳川慶喜公伝』
- 『岩倉公実記』