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朝鮮王朝第26代国王・大韓帝国初代皇帝 高宗の生涯

朝鮮王朝第26代国王・大韓帝国初代皇帝 高宗の生涯
朝鮮王朝の第26代国王であり大韓帝国的初代皇帝となった高宗の生涯、大院君の政権掌握、露館播遷、近代化と動乱の歴史を詳細に解説します。

📌 主なポイント

  • 高宗は李氏朝鮮の第26代国王であり、のちの大韓帝国初代皇帝である。
  • 1863年の即位当初は、実父である興宣大院君が実権を握り鎖国政策を推し進めた。
  • 1897年に国号を大韓帝国と改め、光武年号を制定して皇帝に即位した。
  • 1907年に退位し、退位後は徳寿宮李太王と称された。

高宗(こうそう、1852年9月8日 - 1919年1月21日)は、李氏朝鮮の第26代国王(在位:1863年 - 1897年)であり、後に大韓帝国の初代皇帝(在位:1897年 - 1907年)となった人物である。激動の近代化期に君主として在位し、内外の列強による圧力や国内の政治的混乱の中で、王権の維持と近代化を模索した。

生涯と即位

高宗は1852年、興宣大院君(李昰応)の次男として生まれた。先王である哲宗が男子を残さず崩御した後、王位継承者が不在となったため、当時の宮中で影響力を持っていた神貞王后趙氏らの決定により、1863年12月に11歳で即位した。

即位当初は若年であったため、実父である興宣大院君が政治の実権を握り、王権の強化や安東金氏による勢道政治の打破を目指した。大院君は鎖国・攘夷政策をとり、フランスやアメリカなどの軍艦による侵攻(丙寅洋擾や辛未洋擾など)を退けた。

親政と開国、閔氏一族の台頭

1873年、高宗が成人すると親政を宣言し、大院君は政権から退くこととなった。これに代わって、正妃である明成皇后(閔妃)の一族が政権の中枢を担うようになった。この時期、朝鮮は従来の鎖国政策から開国へと舵を切り、1876年の日朝修好条規(江華島条約)をはじめ、各国と通商条約を締結していった。

しかし、国内では開化派と守旧派(衛正斥邪派)の対立が激化し、1882年には壬午事変が発生した。この混乱に乗じて清軍が駐留するようになり、朝鮮の外交および軍事面への介入が強まった。さらに、1894年には甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発し、その収拾過程で日清戦争が引き起こされるなど、朝鮮半島は清や日本をはじめとする列強の角逐の場となった。

大韓帝国の成立と露館播遷

日清戦争の結果、下関条約によって朝鮮は清の従属国から独立国家としての地位を確認されたが、影響力を強める日本に対抗するため、高宗と閔妃はロシアへ接近する動きを見せた。1895年の乙未事変(明成皇后暗殺事件)の後、高宗は身の危険を感じ、1896年2月にロシア公館へ身を移した(露館播遷)。ロシア公使館の保護下で反ロシア派の粛清が行われた後、高宗は王宮へ戻った。

自主独立の姿勢を示すため、高宗は1897年10月12日に皇帝に即位し、国号を大韓帝国、年号を「光武」と改めた。専制君主制を規定した「大韓国国制」を公布するなど王権の拡大を図ったが、国際的な対立構造の中で主権を維持することは困難を極めた。

晩年

日露戦争を経て日本の影響力が決定定的となる中、1907年にハーグ密使事件が発覚したことを契機として、日本や親日派官僚の圧力により、高宗は皇太子(純宗)へ譲位を余儀なくされた。退位後は「徳寿宮李太王」と称され、日本の皇族・王公族制度のもとで過ごした。1919年1月21日に徳寿宮で崩御し、その死はのちの三・一独立運動を引き起こす一つの契機となった。

よくある質問

高宗が皇帝に即位したのはいつですか?
1897年10月12日に皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改めました。
高宗の実父は誰ですか?
興宣大院君(李昰応)です。
露館播遷とは何ですか?
1896年2月に、高宗が日本の影響力や明成皇后暗殺事件の混乱を逃れるため、ロシア公使館へ身を移した事件です。

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参考文献

  • 高宗 『百科事典マイペディア』 平凡社
  • 王公族 『精選版 日本国語大辞典』 小学館
  • 片野次雄 『日韓併合:李朝滅亡・抵抗の記憶と光復1910-2010』 彩流社、2010年。
  • 趙景達 『植民地朝鮮と日本』 岩波書店〈岩波新書〉、2013年。