日本の音楽・流行歌

コロッケの唄の歴史と展開:大正から令和まで歌い継がれる流行歌

大正時代に浅草オペラから生まれ日本全国に浸透した流行歌『コロッケの唄』。昭和から令和に至るまでの変遷や背景を詳しく解説します。

📌 主なポイント

  • 『コロッケの唄』の原点は1917年(大正6年)に帝国劇場のオペレッタ『ドッチャダンネ』で披露された劇中歌である。
  • 大正期の歌詞には連日コロッケが出る食卓へのユーモラスな不満が歌われており、当時は高級料理として扱われていた。
  • 1962年(昭和37年)には浜口庫之助作詞・作曲、五月みどり歌唱によりリメイク版が発表された。
  • 2023年(令和5年)には杵屋佐喜による長唄新曲として新たな『コロッケの唄』が配信リリースされた。

コロッケの唄(コロッケのうた)は、日本の大衆文化において異なる時代ごとに発表・リメイクされてきた流行歌の名称である。1917年(大正6年)に誕生した楽曲を原点とし、昭和期や令和期にもそれぞれ独自の背景を持った楽曲が生み出されている。

大正期の誕生と流行

1917年(大正6年)、帝国劇場で公演されたオペレッタ『ドッチャダンネ』の劇中歌「コロッケー」として披露されたのが始まりである。作詞は益田太郎冠者、作曲は外国曲とされている。歌詞は10番まであり、結婚したものの妻が作る料理が高級品であった「コロッケ」ばかり続き、毎日のように食卓に上るため飽きてくるというユーモラスな内容が描かれていた。

その後、日本館で公演されたオペレッタ『カフェーの夜』において佐々紅華の編曲により「コロッケの唄」として再使用され、天野喜久代が劇中で歌ったことで大きな人気を集めた。当時のコロッケは、トンカツやステーキと並ぶかそれ以上に高価な高級西洋料理であり、安価な大衆惣菜として定着した後の時代とは背景が異なっていた。

マスコミやラジオ放送網が未発達であった大正中期において、こうした舞台公演やレコードなどを通じて曲は全国に波及した。1927年(昭和2年)刊行の『娯楽大全』では、宴会の隠し芸としての振り付けや「けふもコロッケ」というフレーズが紹介されており、すでに日本全国の津々浦々にまで浸透していたことが確認されている。また、長音階を基調とした西洋的なメロディーラインは、当時の日本大衆の間で西洋文化が受容されていく過程を示す一つの証左とも評価されている。

昭和・平成期の展開

1962年(昭和37年)、歌手の五月みどりによって浜口庫之助の作詞・作曲によりリメイク版が発表された。大正期の歌詞にある「今日もコロッケ」といったフレーズの一部を受け継ぎつつ、昭和の歌謡曲として新たな装いを見せた。さらに2003年(平成15年)には、平成期における再リリースとして歌詞の一部を変更したバージョンが同じく五月みどりの歌唱によって発表されている。

令和期の新たな試み

2023年(令和5年)、長唄三味線方の杵屋佐喜による長唄の新曲として『コロッケの唄』が配信リリースされた。作詞・作曲は杵屋佐喜、編曲は的場英也が手がけている。大名からコロッケを作るよう命じられた太郎冠者を題材にし、長唄のもつポップな要素を前面に出すことで、ダンスナンバーとしても楽しめる楽曲として制作された。

よくある質問

『コロッケの唄』は大正時代にどのように広まりましたか?
帝国劇場のオペレッタ『ドッチャダンネ』や、その後の『カフェーの夜』などの舞台公演を通じて人気を博し、レコードや口伝えによって昭和初期には日本全国に浸透しました。
大正期の『コロッケの唄』に登場するコロッケはどのような位置づけでしたか?
当時のコロッケはトンカツやステーキに匹敵するほどの高価な高級料理であり、歌詞の中でも連日食卓に上る贅沢なメニューとして描かれています。
昭和期には誰が『コロッケの唄』を歌いましたか?
1962年(昭和37年)に浜口庫之助が作詞・作曲を手がけ、五月みどりの歌唱によってリメイク版が発表されました。

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参考文献

簗瀬久「コロッケの普及」『おいしいコロッケ大百科』アイフォレスト出版、2008年、94-118頁。
菊池清麿「大正六(一九一七)年」『昭和演歌の歴史』アルファベータブックス、2016年、153頁。
森田哲至「日本橋高等女学校出身『天野喜久代』の活動の軌跡(上)」『日本橋学研究』第5巻第1号、2012年、35-51頁。