小作争議の歴史と展開
📌 主なポイント
- ✓小作争議は、小作農が地主に対して小作料の減免や耕作権の保障を求めた農民運動である。
- ✓1922年に結成された日本農民組合が運動の組織化を主導した。
- ✓政府は1924年に小作調停法を施行したが、根本的な解決となる小作法の制定には至らなかった。
- ✓昭和恐慌期には、東北地方を中心に耕作権をめぐる争議が激化した。
小作争議とは、地主から農地を借りて耕作する小作農が、小作料の減免や耕作権の保障など、労働条件の改善を求めて地主に対して起こした争議のことです。これは近代日本における農民運動の主要な形態であり、寄生地主制という当時の農業構造に起因する社会問題でした。
背景と発生
近代における小作争議は、農村不況を背景に発生しました。当初は凶作や自然災害に伴う一時的かつ非組織的な抗議活動が中心でしたが、日露戦争後には米穀検査に対する反発などが重なり、争議は次第に激化しました。1920年代に入ると、大正デモクラシーの風潮の中で農民の権利意識が高まり、各地で組織的な農民運動が頻発するようになりました。
組織化と高揚期
1922年(大正11年)、杉山元治郎や賀川豊彦らによって全国組織である日本農民組合が結成されました。これにより、小作農たちは組合を通じて団結し、組織的な交渉を行うようになりました。この時期は「第一次高揚期」と呼ばれ、香川県の伏石争議、群馬県の強戸争議、新潟県の木崎争議などが代表的な事例として知られています。
しかし、運動内部では政治的立場の違いから分裂が繰り返されました。1926年には右派の全日本農民組合同盟が、1927年には中間派の全日本農民組合がそれぞれ分裂し、農民運動は右派・左派・中間派の三派を軸に推移することとなりました。
政府の対応と限界
政府は事態の収拾を図るため、1924年(大正13年)に小作調停法を施行しました。各府県に地主と小作人の関係に精通した小作官を配置し、法外調停を推進しました。調停の申し立て件数は1925年から1926年にかけて高い水準で推移しましたが、小作農の耕作権を法的に公認する「小作法」の制定は、地主層を支持基盤とする帝国議会の反対により実現しませんでした。そのため、寄生地主制という構造的な矛盾は戦後の農地改革まで解消されることはありませんでした。
昭和恐慌と第二次高揚期
1929年の世界恐慌に端を発する昭和恐慌により、農村経済は深刻な打撃を受けました。東北地方を中心に凶作が重なり、争議は「第二次高揚期」を迎えます。この時期の争議は、小作料の減免を求める大規模なものから、耕作権をめぐる小規模な争議へと変化しました。また、全国農民組合は小作問題のみならず、税負担や肥料の独占価格、賃金問題など、農村が抱える広範な課題に取り組む方針を打ち出しました。
文学への影響
当時の小作争議はプロレタリア文学の重要な題材となりました。小林多喜二は『不在地主』で北海道の争議を描き、黒島伝治は『豚群』などで農村の過酷な現実を表現しました。また、運動が組織として衰退した後も、島木健作の『再建』などが小作争議と農民組合をテーマに取り上げています。
よくある質問
小作争議の主な目的は何でしたか?
日本の三大小作争議とは何ですか?
なぜ小作法は制定されなかったのですか?
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参考文献
- 争議件数は増えたが、和解率も上昇『中外商業新報』昭和2年10月14日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p158 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』p343 河出書房新社 2003年
- 日本大百科全書(ニッポニカ)『小作争議』 - コトバンク
- 農林省、小作調停法の実績を発表(一)『時事新報』大正15年11月14日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p205 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)