光文事件:大正天皇崩御時の元号誤報
📌 主なポイント
- ✓1926年12月25日、大正天皇崩御の際に発生した新聞の誤報事件である。
- ✓東京日日新聞が新元号を「光文」と報じたが、実際には「昭和」であった。
- ✓「光文」は内閣側が作成した元号案の一つであり、宮内省の最終候補には含まれていなかった。
- ✓この誤報により、東京日日新聞の編輯局主幹が辞任する事態となった。
光文事件(こうぶんじけん)は、1926年(大正15年)12月25日の大正天皇崩御に際し、新元号をめぐって発生した新聞報道による大規模な誤報事件である。東京日日新聞(現在の毎日新聞)が、実際には選定されていなかった「光文」を新元号として報じたことで知られる。
事件の経緯
1926年12月25日午前1時25分、大正天皇が崩御した。東京日日新聞は、崩御直後に発行した号外および同日午前4時の朝刊最終版において、「元号は『光文』と決定」という見出しで報道を行った。しかし、同日午前11時頃に宮内省から正式に発表された新元号は「昭和」であった。
この誤報により、東京日日新聞社内では責任問題が浮上し、社長の本山彦一が辞意を表明する事態となった。最終的には、編輯局主幹であった城戸元亮が辞任することで事態の収拾が図られた。
誤報の背景
当時、新元号の選定は宮内省が主導しており、一木喜徳郎宮内大臣の命を受けた図書寮編修官の吉田増蔵らが起案を行っていた。一方で、内閣側でも独自に元号案を作成しており、若槻禮次郎内閣総理大臣の命を受けた国府種徳らが起案を担当していた。「光文」は内閣側の案に含まれていたものであり、宮内省の最終選定案には含まれていなかった。
枢密院議長・倉富勇三郎の日記によれば、1926年12月8日の時点で「昭和」が最終候補として決定していたことが明らかになっている。東京日日新聞が報じた「光文」は、選定作業中に内閣案から漏洩した情報に記者が飛びついたものとされている。
他社の対応とその後
時事新報は、同日午前10時の市内速報版で「昭和」と報じることに成功した。大阪毎日新聞も東京日日新聞から「光文」との通信を受けていたが、情報の不確実性を考慮して発表を見送り、他社と同様に「昭和」と報じたため、誤報を免れた。
この事件は、後の改元報道における教訓として長く語り継がれた。1989年(昭和64年)の昭和から平成への改元時には、毎日新聞が他社に先駆けて「平成」の文字を夕刊に掲載し、63年越しの名誉挽回を果たしたと社史で記録されている。
よくある質問
なぜ「光文」という元号が報じられたのですか?
宮内省の最終案に「光文」は含まれていましたか?
この事件による新聞社への影響はありましたか?
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参考文献
- 新聞研究所編『日本新聞年鑑 昭和3年版』新聞研究所、1927年。
- 毎日新聞社130年史刊行委員会編『「毎日」の3世紀』毎日新聞社、2002年。
- 石渡隆之「公的記録上の『昭和』」『北の丸―国立公文書館報』第7号、1976年。
- 国立国会図書館「元号伝説 - ポスト『大正』は『光文』か?」