歴史

公卿(くぎょう)の歴史と日本の律令体制における役割

日本の律令制に基づく太政官の高官である「公卿(くぎょう)」の歴史、武家の関与、そして明治維新による華族制度への移行について解説します。

📌 主なポイント

  • 公卿は、日本の律令制に基づく太政官の高官であり、国政を担う最高の職位を指す。
  • 平安時代末期の平清盛が武家として初めて太政大臣に就任し、武家公卿の先駆けとなった。
  • 明治2年(1869年)の版籍奉還に伴う太政官達により、公卿および諸侯の称が廃止され、華族へと移行した。

公卿(くぎょう)とは、日本の律令の規定に基づく太政官の高官であり、国政を担う最高の職位を指す用語である。歴史的に、古代から近代の王政復古に至るまで、日本の朝廷政治や上流社会において中心的な役割を果たした。

公卿の定義と構成

中国の律令制度における「三公九卿」の制度に倣い、日本においても太政大臣・左大臣・右大臣を「公」と呼び、三位以上の貴人や参議の官にある者を「卿」と呼んだことから、両者を合わせて「公卿」と呼ばれるようになった。具体的には、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、あるいは非参議であっても従三位以上の高官を指す。このうち参議以上は議政官とも総称された。公卿の地位に昇った者は、年毎に作成される『公卿補任』にその名を記載された。

歴史的変遷と武家の参入

平安時代末期以降、政情の変化に伴って武家層が公卿の地位に昇る例が現れた。平氏政権の平清盛が太政大臣に就任したことが武家公卿の始まりとされ、鎌倉時代以降は征夷大将軍が公卿の身分を持つ伝統が生まれた。源頼朝、源実朝などがこれに該当する。室町幕府の足利将軍家や、戦国時代の有力大名の中にも朝廷との関係を通じて従三位以上に昇る者が現れた。

公卿の消滅と華族制度への移行

慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により、千年以上続いてきた官位制度が大きく改革された。明治2年6月17日(1869年7月25日)の版籍奉還に伴い、太政官達「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」が公布され、公卿は旧藩主の諸侯とともに「華族」と名称を変更した。これにより、代々公卿を務めた家々は公家華族として近代日本の上流社会を形成していくこととなった。

よくある質問

公卿とはどのような人々のことですか?
律令制に基づく太政官の高官であり、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議、または従三位以上の高官を指します。
武家で最初に公卿になったのは誰ですか?
平安時代末期に太政大臣に就任した平清盛が、武家の公卿の始まりとされています。
公卿の制度はどのように終わりましたか?
明治維新後の明治2年(1869年)に行われた版籍奉還に伴う太政官達により、公卿や諸侯の称が廃止され、新たに華族制度が創設されたことで消滅しました。

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官位位階太政官律令制華族

参考文献

『華族誕生』浅見雅男、リブロポート、1994年。