喰違の変:明治初期における岩倉具視暗殺未遂事件の全貌
📌 主なポイント
- ✓喰違の変は明治7年(1874年)1月14日に発生した右大臣・岩倉具視の暗殺未遂事件である。
- ✓襲撃者は高知県出身の不平士族ら総勢9人で、その多くは征韓論争に伴い下野した元官僚や軍人であった。
- ✓岩倉具視は軽傷を負ったものの四ッ谷濠へ転落し、襲撃者に見失われたことで一命を取り留めた。
- ✓事件後、犯人グループは迅速に逮捕され、同年7月に司法省臨時裁判所で斬罪の判決を受けた。
喰違の変(くいちがいのへん)は、明治7年(1874年)1月14日の夜、東京の赤坂喰違坂において発生した、右大臣・岩倉具視に対する暗殺未遂事件である。「赤坂喰違の変」や「岩倉具視遭難事件」とも称される。
事件の背景
明治6年(1873年)10月、政府内においていわゆる征韓論争が勃発した。この政争に敗れた西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らの征韓派参議が下野したことは、征韓論の実現に期待を寄せていた不平士族層の不満をさらに高める結果となった。当時、急病により一線を退いていた太政大臣三条実美に代わって論争を主導していた右大臣の岩倉具視や、内務卿の大久保利通に対する恨みは次第に増幅されていった。
暗殺未遂事件の経過
明治7年(1874年)1月14日夜、公務を終えて赤坂の仮皇居から自宅へ帰る途中にあった岩倉具視の馬車が、赤坂喰違坂にさしかかった際、襲撃者一団が一斉に襲いかかった。襲撃者は高知県士族であり、元外務省に出仕していた武市熊吉をはじめ、武市喜久馬、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、中西茂樹、沢田悦弥太の総勢9人であった(当初は10人であったが、襲撃前夜の宴席で殺傷事件を起こし、黒岩成存が代表して捕らわれていた)。彼らの多くは西郷や板垣に従って職を辞した元官僚や軍人であった。岩倉は襲撃者の攻撃により眉の下と左腰に軽傷を負ったものの、馬車から皇居の四ッ谷濠へ転落し、襲撃者たちが暗がりの中でその姿を見失ったため一命を取り留めた。しかし精神的な動揺は大きく、公務への復帰は1ヶ月後の2月23日となった。
捜査と処分
事件の報せを受けた内務卿の大久保利通は直ちに参内し、岩倉の軽傷を確認して安堵したものの、不平士族による政府高官襲撃という事態を重く見て、警視庁大警視の川路利良に早急な犯人捜索を命じた。現場に残された武市熊吉の下駄が決定的な手がかりとなり、事件から3日後の1月17日には関与した9人全員が逮捕された。同年7月9日、司法省臨時裁判所において全員に斬罪の判決が下され、伝馬町牢屋敷にて処刑された。なお、この事件の4年後である明治11年(1878年)には、喰違見附のすぐ先にある紀尾井坂において、大久保利通が石川県士族らによって暗殺される紀尾井坂の変が発生している。
よくある質問
喰違の変とはどのような事件ですか?
なぜ岩倉具視は襲撃されたのですか?
襲撃者たちはどうなりましたか?
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参考文献
- 岩倉右大臣を喰違外に刺す 新聞集成明治編年史第二卷、林泉社、1936-1940.
- 福島成行、前田馬城太『赤坂喰違の事変 : 征韓論余聞』昭和2年、p62.