日本の歴史

来島恒喜:大隈重信暗殺未遂事件の実行者

来島恒喜:大隈重信暗殺未遂事件の実行者
明治時代の政治運動家、来島恒喜の生涯と、1889年に外務大臣・大隈重信を襲撃した事件について解説します。

📌 主なポイント

  • 1860年、福岡藩士・来島又右衛門の二男として誕生。
  • 1889年10月18日、条約改正に反対し外務大臣・大隈重信を爆弾で襲撃。
  • 襲撃直後に短刀で自害し、享年29歳で死去。

来島恒喜(くるしま つねき、1860年1月31日〈安政6年12月30日〉 - 1889年〈明治22年〉10月18日)は、明治時代の日本の政治運動家、不平士族。福岡藩士・来島又右衛門の二男として生まれ、玄洋社などの政治結社に深く関わりました。

来島恒喜の肖像
来島恒喜の肖像

経歴と政治活動

福岡で高場乱が主宰する興志塾などで学んだ後、上京して中江兆民にフランス語を学びました。その後、筑前共愛公衆会や頭山満が率いる玄洋社に参加し、政治活動を展開しました。一時期は小笠原諸島へ渡り、朝鮮の開化党員である金玉均と交流し、朝鮮の政治改革について議論を交わした経験もあります。

大隈重信襲撃事件

1889年(明治22年)、当時外務大臣を務めていた大隈重信が進めていた条約改正案に対し、来島は強い反発を抱きました。同年10月18日、外務省からの帰路にあった大隈の乗る馬車に向けて爆弾を投げつけました。爆弾は大隈の足元で爆発し、大隈は右脚切断という重傷を負いました。来島はその場で短刀を用いて自害しました。

崇福寺の玄洋社墓地にある来嶋恆喜之墓
崇福寺の玄洋社墓地にある来嶋恆喜之墓(福岡市)

この事件により、条約改正交渉は頓挫し、黒田清隆内閣は総辞職に追い込まれました。来島の墓所は、福岡市の崇福寺(玄洋社墓地)および東京都台東区の谷中霊園に存在します。

谷中霊園にある来嶋恒喜之墓
谷中霊園にある来嶋恒喜之墓(台東区)

人物評価

大隈重信は後に、来島について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず」と語り、その勇気に対しては複雑ながらも一定の評価を述べています。一方で、かつての師である高場乱は、事件を知った際にその浅はかさを批判しつつも、自決したことに対して嘆きの歌を詠みました。

よくある質問

来島恒喜が襲撃した理由は?
当時外務大臣であった大隈重信が進めていた条約改正案に反対し、その交渉を阻止することを目的としていました。
大隈重信の被害状況は?
爆弾の爆発により右膝と踝に重傷を負い、右脚を切断することとなりました。
来島恒喜の墓はどこにありますか?
福岡市の崇福寺(玄洋社墓地)と、東京都台東区の谷中霊園の二箇所にあります。

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参考文献

  • 伊藤之雄『大隈重信(上)「巨人」が夢見たもの』中央公論新社、2019年。
  • 永畑道子『凛―近代日本の女魁・高場乱』藤原書店、1997年。
  • 世界大百科事典 第2版(平凡社)。