日本の歴史

京都見廻組:幕末の京都における治安維持組織

江戸時代末期、幕府が京都の治安維持を目的に結成した組織「京都見廻組」の歴史、役割、および坂本龍馬暗殺との関わりについて解説します。

📌 主なポイント

  • 元治元年(1864年)に京都の治安維持を目的に結成された幕府の組織である。
  • 隊士は旗本や御家人から構成され、主に御所や二条城周辺の警備を担当した。
  • 慶応3年(1867年)の近江屋事件において、坂本龍馬と中岡慎太郎を殺害した実行組織として知られる。
  • 鳥羽・伏見の戦い以降、組織は再編を経て解体された。

京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)は、江戸時代末期に江戸幕府が京都の治安維持を目的として結成した組織である。主に御所や二条城周辺の官庁街を管轄し、幕府の権威を背景とした警察活動に従事した。

創設と組織

元治元年(1864年)、京都守護職・松平容保の配下として、備中浅尾藩主の蒔田廣孝と旗本の松平康正が「京都見廻役」に任命されたことで組織された。隊士は旗本や御家人から構成され、剣術に秀でた者が選抜された。組織は二つの組に分けられ、それぞれ「相模守組(蒔田)」および「出雲守組(松平)」と称された。隊員数は各組200名程度であったとされる。

新選組が主に祇園や三条などの町人街・歓楽街を管轄したのに対し、見廻組は公的な官庁街を主な警備範囲としていた。このため、両組織が共同戦線をとる機会は少なく、身分的な背景の違いから反目することもあった。

近江屋事件と坂本龍馬暗殺

慶応3年(1867年)11月15日、京都の近江屋において坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された「近江屋事件」の実行犯として、京都見廻組の名が挙げられる。この事件において、相模組与頭の佐々木只三郎が今井信郎ら隊士を選抜して襲撃を行ったとされる。明治3年(1870年)に元見廻組の今井信郎が自供したことで、この暗殺は見廻組による職務遂行であったと認められた。

組織の終焉

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いにおいて、見廻組は旧幕府軍として参戦した。戦後の混乱の中で大阪から江戸へ退却し、その後「狙撃隊」と改称された。しかし、徳川家の駿府移封に伴い、多くの隊士が解雇され、組織は事実上解体された。一部の隊士はその後も戊辰戦争の箱館戦争まで戦闘を継続した。

よくある質問

京都見廻組と新選組の違いは何ですか?
京都見廻組は旗本や御家人といった幕臣で構成され、主に御所や官庁街を管轄しました。一方、新選組は浪士を中心に構成され、町人街や歓楽街の警備を主としていました。
坂本龍馬を暗殺したのは京都見廻組ですか?
はい。明治3年(1870年)に元見廻組の今井信郎が自供したことにより、京都見廻組による犯行と認められています。
京都見廻組はいつ解散しましたか?
慶応4年(1868年)に狙撃隊と改称された後、徳川家の駿府移封に伴い、隊士の多くが任を解かれ解体されました。

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新選組京都守護職近江屋事件戊辰戦争幕臣

参考文献

  • 菊地明著『京都見廻組 秘録 龍馬を斬った幕府治安部隊』洋泉社、2011年。
  • 菊地明著『京都見廻組史録』新人物往来社、2005年。
  • 佐和隆研・奈良本辰也・吉田光邦ほか編『京都大事典』淡交社、1984年。
  • 小西四郎、山本大、江藤文夫、宮地佐一郎、広谷喜十郎編『坂本龍馬事典』新人物往来社、2007年。