共戴紀元
📌 主なポイント
- ✓共戴紀元は1911年を元年とするモンゴルの紀年法である。
- ✓1915年のキャフタ条約により一度公式使用が禁止された。
- ✓1924年のモンゴル人民共和国成立に伴い、モンゴル国紀元およびモンゴル人民共和国紀元へと改称された。
- ✓憲法上の規定が失われた後も、1940年代発行の紙幣や硬貨に紀年が刻印されていた。
共戴紀元(きょうたいきげん、モンゴル語: Олноо өргөгдсөн)は、1911年にモンゴルが清朝からの独立を宣言し、ジェプツンダンバ・ホトクト8世がボグド・ハーンとして即位したことを受けて制定された紀年法である。元年を西暦1911年とする。
歴史的背景と制定
1911年10月の武昌蜂起により清朝の統治能力が低下すると、外モンゴルのハルハ諸王公は同年12月1日にフレー(現在のウランバートル)で独立を宣言した。12月29日、ジェプツンダンバ・ホトクト8世がボグド・ハーンとして即位する儀式が行われ、これに伴い「万人に推戴された」という意味を持つ「共戴」を冠した紀元が採用された。
使用の変遷
ボグド・ハーン政権下では干支紀年と併用されたが、1915年のキャフタ条約によりモンゴルの地位が中華民国の宗主権下における「自治」に限定されると、同年6月9日をもって公式な使用が禁止された。その後、1921年にウンゲルン率いる白軍がフレーを占領しボグド・ハーン政権が復活すると、再び使用されるようになった。
1921年7月にモンゴル人民政府が樹立された後も、ボグド・ハーンを制限君主として推戴する体制下で共戴紀元は継続して使用された。しかし、1924年5月にボグド・ハーンが死去すると、同年6月から7月にかけて開かれた人民党中央委員会全体会議において、紀元を「モンゴル国紀元」へ改めることが決議された。同年11月の第1回イフ・フラル(人民大会議)で新憲法が公布され、君主制の廃止とモンゴル人民共和国の成立が宣言されると、紀元も「モンゴル人民共和国紀元」へと移行した。
公式廃止後の使用
社会主義化の進行とともに西暦への統一が進められたが、公式な廃止年月日は特定されていない。1940年憲法制定後も、1941年発行の紙幣や1945年発行の硬貨には「モンゴル人民共和国31年」「同35年」といった表記が見られ、公的な流通物において長期間使用されていたことが確認されている。