旧皇室典範:明治期に制定された皇室制度の基本法

📌 主なポイント
- ✓旧皇室典範は1889年2月11日に公布・裁定され、1947年5月2日限りで廃止された。
- ✓大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、帝国議会の関与を必要としない皇室自律主義をとっていた。
- ✓条文は全12章62条で構成されており、即位礼や大嘗祭を京都で行うことなどが規定されていた。
旧皇室典範(きゅうこうしつてんぱん)は、1889年(明治22年)2月11日から1947年(昭和22年)5月2日までの間、皇位継承順位や皇室に関する制度を規定していた法規である。当時の大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、両者を合わせて「典憲」と称された。単に「典範」とも呼ばれる。

概説と法的な性格
1886年6月10日、宮内大臣であった伊藤博文が帝室典則案を内大臣の三条実美に提出したことに始まる。その後、1887年3月20日には首相兼宮相の伊藤博文、帝室制度取調局総裁の柳原前光、井上毅、伊東巳代治らが会合を開き、皇室典範および皇族条例の草案について討議が行われた。
1889年2月11日に裁定された旧皇室典範は、当初は皇室の家法としての性格が強く与えられており、官報には登載されなかった。しかし、1907年(明治40年)2月11日に裁定された皇室典範増補において、宮内大臣および各国務大臣の副署がなされ、公布の対象となって国民も拘束するものとされた。もっとも、公式令などで宮務法と国務法の峻別が定められていたことからも分かるように、大日本帝国憲法の下位に置かれたわけではない。

旧皇室典範の改正や増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ、帝国議会の協賛や議決は要しないとされていた。これは、現在の日本国憲法下の皇室典範には見られない皇室自律主義の表れであった。増補は1907年と1918年(大正7年)の2度行われたのみであり、本文そのものを改正した例はないまま1947年に廃止された。
構成
旧皇室典範は全12章62条で構成されていた。

皇族の範囲と臣籍降下
旧皇室典範では、皇子から皇玄孫(4世)までを親王とし、5世以下を王と規定していた。原則として永世皇族制を採用し、皇族女子の婚姻による離脱を除き、男系子孫は何世代後であっても皇族であり続けるとされていた。
しかし、明治32年に成立した帝室制度調査局による検討を経て、1907年の皇室典範増補により、王が勅旨または本人からの情願により家名を賜って華族になることができる「臣籍降下制度」が創設された。その後、1920年には具体的な基準である「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定され、長子孫の系統4世以内を除き、王が降下の情願をすることで華族に列するとされた。この準則は1946年に廃止されている。
大礼の開催地と譲位に関する経緯
明治天皇が1877年に京都御所を訪れた際、その衰退を憂いて旧都の保存を命じ、1883年には京都を即位式および大嘗会の地と定めた。これを受けて、旧皇室典範第11条では「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都二於イテ之ヲ行フ」と規定された。
また、典範原案の策定段階では天皇の譲位に関する規定が盛り込まれており、宮内省図書頭の井上毅が譲位容認を主張したものの、伊藤博文の反対によって当該条文は削除された経緯がある。
よくある質問
旧皇室典範はいつからいつまで施行されていましたか?
旧皇室典範と大日本帝国憲法はどのような関係でしたか?
即位の礼や大嘗祭の場所についてどのように規定されていましたか?
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参考文献
所功『近代大礼関係の基本史料集成』国書刊行会、2018年。