日本の雑誌
團團珍聞:明治時代の風刺雑誌

明治時代に刊行された風刺雑誌『團團珍聞(まるまるちんぶん)』の歴史、自由民権運動との関わり、およびその終焉について解説します。
📌 主なポイント
- ✓1877年に野村文夫が創刊した明治時代の風刺雑誌。
- ✓英国の雑誌『パンチ』をモデルとし、亜鉛凸版による戯画を掲載した。
- ✓自由民権運動期に政府を風刺し、高い人気を博した。
- ✓発行停止処分に対抗するため、一時的に『驥尾團子』を並行刊行した。
團團珍聞(まるまるちんぶん)は、1877年(明治10年)から1907年(明治40年)まで刊行された、明治時代の週刊風刺雑誌である。愛称は「マルチン」。当時の藩閥政府を風刺する戯画や狂句を掲載し、自由民権運動の機運が高まる中で大きな人気を博した。

創刊と背景
1877年2月25日、野村文夫が東京の神田雉子町に「團團社」を設立し、同年3月に創刊した。野村は英国の風刺雑誌『パンチ』をモデルとしており、その表紙デザインや亜鉛凸版を用いた斬新な手法は当時の日本において画期的であった。

言論弾圧と対策
創刊当時は西南戦争の最中であり、政府による言論統制が厳しさを増していた。團團珍聞は直接的な批判を避け、謎かけや戯画を用いることで弾圧を回避した。例えば、西郷隆盛を「桐の折詰」と表現するなど、婉曲的な手法で政府高官を皮肉った。こうした姿勢は読者の支持を集め、1880年には年間約26万部を売り上げるほどの盛況を見せた。
政府の弾圧に対抗するため、1878年からは妹格の雑誌『驥尾團子(きびだんご)』を刊行し、團團珍聞が発行停止処分を受けた際の代替として活用した。しかし、1883年の新聞紙条例改訂により、こうした並立的な発行が困難となり、驥尾團子は廃刊に追い込まれた。
変遷と終焉
1891年に創業者である野村文夫が没した後、雑誌は梅亭金鵞らによって支えられた。1897年には大岡育造が團團社を買収し、社名を「珍聞館」へと改称した。時代が移り変わり、日清・日露戦争を経て自由民権運動の熱気が冷めると、雑誌の内容も政治風刺から芸妓の話題や漫画中心へと変化していった。その後、経営状態の悪化により1907年に終刊した。
よくある質問
團團珍聞の愛称は何ですか?
「マルチン」と呼ばれていました。
どのような内容の雑誌でしたか?
時局風刺を主とし、狂句、狂歌、戯画を用いて政府を皮肉る内容が中心でした。
なぜ『驥尾團子』という雑誌があったのですか?
政府による発行停止処分を受けた際、團團珍聞の代わりとして発行するためです。
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参考文献
- 木本至『「団団珍聞」「驥尾団子」がゆく』白水社、1989年。
- 清水薫監修『漫画雑誌博物館 明治時代編 團團珍聞1・2』国書刊行会、1986年。
- 長谷川如是閑『ある心の自叙伝』講談社学術文庫、1984年。