日本の歴史人物

松平頼胤:江戸時代後期の大名・讃岐高松藩第10代藩主

松平頼胤:江戸時代後期の大名・讃岐高松藩第10代藩主
江戸時代後期の大名で讃岐高松藩第10代藩主を務めた松平頼胤の生涯、藩政、幕末期の政治的動向や系譜について解説する百科事典記事。

📌 主なポイント

  • 讃岐高松藩の第10代藩主である。
  • 第8代藩主・松平頼儀の次男として生まれ、のちに松平頼恕の養子となった。
  • 幕末期には大老・井伊直弼を支持し、水戸藩への圧迫に関与した。
  • 文久元年(1861年)に蟄居を命じられ、養子の頼聰に家督を譲って隠居した。

松平 頼胤(まつだいら よりたね)は、江戸時代後期の大名で、讃岐高松藩の第10代藩主。官位は正四位、左近衛権中将、宮内大輔、讃岐守、玄蕃頭などを歴任した。字は舜民。

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松平頼胤

生涯

文化7年12月22日(1811年1月16日)、高松藩の第8代藩主・松平頼儀の次男として誕生した。母は藤木氏であり、幼名は雄丸、通称は都太郎または貞五郎と称した。

文政元年(1818年)に松平頼恕の養嗣子となり、天保13年(1842年)の頼恕の死去に伴い家督を継承した。藩主就任後、弘化元年(1844年)には幕命を受けて、若年であった水戸藩主・徳川慶篤の藩政を補佐する役割を担った。

安政4年(1857年)から翌年にかけての将軍継嗣問題および日米修好通商条約の勅許をめぐる政治情勢の中では、大老・井伊直弼の政治路線を支持し、本藩である水戸藩への圧迫に関与した。しかし、安政の大獄やその後の桜田門外の変による井伊直弼の暗殺といった激動の政治的環境の変化を受け、文久元年(1846年ではなく1861年)7月に蟄居を命じられた。これにより隠居を余儀なくされ、頼恕の四男で自身も養子として迎えていた頼聰に家督を譲った。

隠居後は表舞台から退き、明治4年(1871年)に東京へ移住した。明治10年(1877年)12月30日に死去した。享年68。法諱は善得。

系譜

  • 父:松平頼儀(1775年 - 1829年)
  • 母:藤木氏
  • 養父:松平頼恕(1798年 - 1842年)
  • 正室:文姫(1809年 - 1837年) - 徳川家斉の十六女、徳川家慶の妹
  • 子女:
    • 竹雄丸
    • 大原重実室
    • 松平頼温(1862年 - 1921年)
    • 松平頼和(1865年 - 1940年) - 松平頼英の養子
    • 衛(1849年 - ?) - 松平頼策正室
  • 養子:
    • 松平頼煕(1826年 - 1846年) - 松平頼恕の長男
    • 松平頼聰(1834年 - 1903年) - 松平頼恕の四男
    • 松平頼徳正室 - 松平頼顕の娘

よくある質問

松平頼胤は誰の子供ですか?
高松藩の第8代藩主・松平頼儀の次男として生まれました。
松平頼胤はどのような役職に就いていましたか?
讃岐高松藩の第10代藩主を務め、官位は正四位、左近衛権中将、宮内大輔、讃岐守、玄蕃頭などを歴任しました。
隠居するに至った経緯は何ですか?
幕末の政治情勢の中で井伊直弼を支持して本藩である水戸藩を圧迫しましたが、桜田門外の変後の文久元年(1861年)7月に幕府から蟄居を命じられ、家督を譲って隠居しました。

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参考文献

国立公文書館所蔵資料、高松藩史料、および『寛政重修諸家譜』等の系譜記録。