松井須磨子の生涯と新劇における足跡

📌 主なポイント
- ✓松井須磨子は明治19年(1886年)3月8日に長野県で生まれた。
- ✓坪内逍遥が率いる文芸協会の演劇研究所第1期生として近代演劇の舞台に立った。
- ✓1913年に島村抱月らと芸術座を旗揚げし、『復活』のカチューシャ役などで絶大な人気を得た。
- ✓大正8年(1919年)1月5日に32歳で自ら命を絶った。
松井須磨子(まつい すまこ、明治19年〈1886年〉3月8日 - 大正8年〈1919年〉1月5日)は、日本の近代演劇初期を代表する新劇女優であり、歌手である。本名は小林正子。
長野県埴科郡清野村(現在の長野市)に旧松代藩士の家に生まれた後、上京を経て俳優養成学校へ進み、坪内逍遥が率いる文芸協会の演劇研究所第1期生となった。舞台『人形の家』のノラ役や『復活』のカチューシャ役などを通じて一躍人気女優となり、レコード歌唱においても大きな足跡を残した。
生い立ちと女優への道
長野県で小林藤太の五女として生まれた正子は、上田の尋常小学校を卒業した後に上京し、戸板裁縫学校などに学んだ。最初の結婚や離婚を経て東京高等師範学校生の前沢誠助と再婚した頃より、平凡な生活からの脱却を求めて女優を志すようになった。
俳優養成機関の面接では外見的な理由から一旦は入学を拒まれたが、当時としては新しい美容整形手術(隆鼻術)を受けて容姿を整え、文芸協会演劇研究所の別科生として採用された。1911年、帝国劇場における文芸協会の第一回公演『ハムレット』のオフェリア役でデビューを飾り、同年9月には『人形の家』のノラ役を演じて高い評価を受けた。
芸術座の旗揚げと「歌う女優」としての成功
演技指導にあたっていた島村抱月との恋愛が問題視されたことを受け、須磨子は文芸協会を離れ、1913年に抱月らとともに芸術座を旗揚げした。1914年にはトルストイ原作、抱月訳の舞台『復活』でカチューシャ役を演じ、これが大あたりとなった。
舞台の劇中歌として歌われた「カチューシャの唄」のレコードは当時大ヒットを記録し、須磨子は日本における「歌う女優」の先駆けとなった。その後も『ゴンドラの唄』や『さすらいの唄』などの楽曲を発表し、多くのレコードが広く普及した。一方で、1917年に発売された『今度生まれたら』の歌詞が当時の文部省により問題視され、各地で発売禁止処分を受けるなどの騒動も経験した。
晩年と自殺
大正7年(1918年)11月、芸術座を支えた島村抱月がスペイン風邪により急逝した。その約2ヶ月後となる大正8年(1919年)1月5日、有楽座での『カルメン』公演期間中に、牛込区横寺町にあった芸術倶楽部の道具部屋において首吊り自殺を遂げた。これに伴い、芸術座は解散に至った。
死後、遺書が坪内逍遥や伊原青々園らに残されており、近年では新たな遺書の寄贈なども行われている。
よくある質問
松井須磨子の本名は何ですか?
松井須磨子を代表する当たり役は何ですか?
松井須磨子が歌った代表的な曲は何ですか?
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参考文献
『人気役者の戸籍調べ』高沢初風、文星社、1919年
下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年