マウリヤ朝:古代インドの統一王朝と仏教文化の展開

📌 主なポイント
- ✓マウリヤ朝は紀元前322年頃から紀元前185年頃まで古代インドで栄えた王朝である。
- ✓チャンドラグプタによってナンダ朝が倒され、首都パータリプトラを拠点に建国された。
- ✓第3代のアショーカ王はカリンガ戦争の後に仏教を深く信仰し、ダルマ(法)に基づく統治を推進した。
マウリヤ朝(梵: मौर्यसाम्राज्यम्, Maurya-sāmrājya、紀元前322年頃 - 紀元前185年頃)は、古代インドのマガダ国を基盤として興った古代インドの統一王朝である。紀元前4世紀末にチャンドラグプタによって創設され、第3代のアショーカ王の時代に全盛期を迎え、南端部を除くインド亜大陸全域に匹敵する広大な領域を支配した。
歴史
王朝の成立
インドの十六大国の中で最も有力であったマガダ国ではナンダ朝が支配を固めていたが、カーストの最下位層出身とされることなどからバラモン教の知識人層から敬遠されていた。こうした情勢下で、マガダ国出身のチャンドラグプタがナンダ朝に対して挙兵した。チャンドラグプタはナンダ朝の派遣した軍を破り、紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領して当時の王を倒し、新王朝であるマウリヤ朝を成立させた。
ガンジス川流域の支配を固めたチャンドラグプタは、アレクサンドロス大王の遠征以降に分裂していたインダス川流域の制圧を進めた。ディアドコイ戦争の最中である紀元前305年頃には、東方遠征を行ったセレウコス朝のセレウコス1世と交戦し、これを退けてインダス川流域からバクトリア南部に至る地域へと勢力を広げた。
アショーカ王の治世と仏教の受容
紀元前268年頃に即位した第3代のアショーカ王は、マウリヤ朝の最大版図を実現した君主である。即位後間もない紀元前259年頃、アショーカ王は南方のかつての従属国であり独立勢力となっていたカリンガ国へ遠征を行った。メガステネスの記録によれば、カリンガ国は多数の歩兵・騎兵・戦象を擁する強国であり、戦争は激戦となった。
カリンガ戦争の凄惨な被害と膨大な犠牲を目撃したアショーカ王は自らの行動を深く悔悟し、それまでの武力による拡張政策を放棄した。その後、王は仏教を深く信仰するようになり、武力による支配ではなく「ダルマ(法)」に基づく統治を目指すようになった。領内各地に石柱や摩崖による法勅を建立し、王自身も巡幸を行って道徳的な統治の徹底を図った。
衰退と滅亡
アショーカ王の死後、マウリヤ朝は分裂と縮小の道をたどった。後継者の統治や王位継承の詳細は記録が乏しく不明な点が多いが、諸文献の記述から複数の勢力に分裂していたことが想定されている。北西インドからはインド・ギリシア人(ヤヴァナ)の侵入圧力が強まり、国内の統治機構は次第に弱体化した。
紀元前180年頃、マウリヤ朝の将軍であったプシャミトラ(仏典における沸沙蜜多羅、プラーナ聖典におけるブリハドラタの系統)が最後の王を倒し、パータリプトラにシュンガ朝を建てたことで、マウリヤ朝は滅亡した。
遺構と文化
マウリヤ朝の歴代王はガンジス川沿いのパータリプトラを首都とした。アショーカ以前の都市建築は主に木造であったため遺構の残存は少ないが、アショーカ王の時代にはレンガ作りや石造りの建築が取り入れられ、クムラーハル村などからは宮殿の遺跡が発見されている。また、インド各地に残るアショーカ王の石柱や仏塔、摩崖に刻まれた法勅は、当時のマウリヤ朝の広範な支配領域と国力を示す重要な史料となっている。
よくある質問
マウリヤ朝を建国したのは誰ですか?
マウリヤ朝が全盛期を迎えたのはどの王の時代ですか?
マウリヤ朝はどのようにして滅亡しましたか?
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参考文献
- 山崎元一、小西正捷編 『世界歴史大系 南アジア史1』 山川出版社、2007年。