明治十四年の政変:開拓使官有物払下げ事件と政府構造の変容

📌 主なポイント
- ✓明治14年(1881年)10月に発生した大隈重信の政府追放事件である。
- ✓開拓使官有物払下げ事件が世論の批判を招き、政変の直接的な引き金となった。
- ✓政変の結果、9年後の国会開設が約束され、伊藤博文を中心とする長州閥の主導権が確立された。
明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)は、明治14年(1881年)10月に参議・大隈重信が政府中枢から追放された政治的事件である。自由民権運動が激化する中で発生した「開拓使官有物払下げ事件」が直接の引き金となり、この政変を境に明治政府の権力構造は大きく変容した。
背景と開拓使官有物払下げ事件
明治13年(1880年)頃から、政府内では北海道の開拓使が保有する産業や土地を民間に払い下げる計画が進められていた。明治14年7月21日、開拓使長官・黒田清隆は、開拓使官僚が組織した「北新社」および五代友厚が関与する「関西貿易社」への払下げを閣議に提議した。
この払下げ計画は、7月26日に新聞報道によって暴露され、黒田による同郷の五代への利益供与であるとして世論の激しい批判を浴びた。この批判は政府に対する不信感を増幅させ、自由民権運動と結びついて政局を揺るがす事態となった。
政変の経過
当時、政府内では大隈重信が提出した立憲政体に関する意見書を巡り、伊藤博文らとの間に深刻な対立が生じていた。大隈の意見書は、イギリス型の議院内閣制を早期に導入し、2年後に国会を開設するという急進的な内容であった。伊藤らは、大隈が福澤諭吉や三菱財閥と結託し、払下げ事件を利用して政権奪取を企てていると確信を強めた。
伊藤博文、井上馨、山縣有朋らは、大隈の排除に向けて岩倉具視や三条実美ら政府重臣への根回しを行った。また、佐々木高行ら「中正党」を自称するグループも、天皇親政を掲げて大隈排斥に同調した。10月11日、明治天皇の帰京に合わせて御前会議が開かれ、大隈の罷免と払下げの中止、および9年後の国会開設が決定された。
政変の影響とその後
大隈重信の罷免と同時に、河野敏鎌、矢野文雄、小野梓ら多くの大隈系官僚が政府を去った。これにより、政府内から福澤派の影響力が排除され、保守的な傾向が強まった。翌明治15年(1882年)には黒田清隆も参議を辞職し、伊藤博文を中心とする長州閥による主導権が確立された。
この政変は、結果として「国会開設の詔」を引き出し、立憲政治への道筋を定めた一方で、政府の保守化を決定づける転換点となった。下野した大隈重信らは、後に立憲改進党を結成し、政党政治の展開へと向かうこととなる。
よくある質問
明治十四年の政変の直接的な原因は何ですか?
なぜ大隈重信は政府から追放されたのですか?
この政変が日本政治に与えた影響は何ですか?
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参考文献
- 伊藤之雄『大隈重信(上)「巨人」が夢見たもの』中央公論新社、2019年。
- 木曽朗生「明治十四年の政変の真相 (1)(2)」『架橋』長崎大学教育学部政治学研究室、2005年・2007年。
- 渡辺俊一「明治十四年政変と『保古飛呂比』」『近代日本研究』慶應義塾福澤研究センター、1994年。