明治六年の政変:征韓論をめぐる明治政府の政治対立と影響

📌 主なポイント
- ✓明治六年政変は明治6年(1873年)に発生した日本政府の内部対立である。
- ✓朝鮮への使節派遣(征韓論)をめぐり、西郷隆盛らと内治優先派の大久保利通・岩倉具視らが対立した。
- ✓政変の結果、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らの参議が辞職した。
- ✓辞職した軍人や官僚は約600人に及び、その後の政治情勢に大きな影響を与えた。
明治六年政変(めいじろくねんせいへん)は、明治6年(1873年)に日本政府の内部で発生した、征韓論をはじめとする政策方針をめぐる大規模な政局対立である。この政変により、西郷隆盛や板垣退助ら参議の半数が辞職し、さらに軍人や官僚約600人が職を退く事態となった。「征韓論政変」とも称される。
背景:日朝関係の断絶と留守政府の成立
明治維新によって王政復古を成し遂げた日本政府は、明治元年(1868年)に対馬藩を通じて李氏朝鮮に使節を派遣したが、新たな国書に「勅」や「皇」といった文字が用いられたことが契機となり、朝鮮側は国書を受け取らなかった。さらに明治4年(1871年)に日清修好条規が締結された後も、日本側が上下関係を意識した国書を送ったことで日朝関係は断絶状態に陥った。
同年11月、岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団が欧米に向けて出発した。これに伴い、留守を預かる「留守政府」が組織され、西郷隆盛、板垣退助、大隈重信、江藤新平らが参議として政務を執ることになった。使節団の出国に際しては、洋行期間中は大規模な内政改革を行わないことなどが取り決められていた。
政変の経緯:朝鮮使節派遣案と権力闘争
明治6年(1873年)に入ると、大蔵省と他官庁の間で予算をめぐる対立が激化した。同年5月、釜山での日本人密貿易取締りをめぐる朝鮮側の対応報告を契機として、板垣退助らが居留民保護のための派兵と使節派遣を主張した。これに対し、西郷隆盛は派兵には反対の立場をとったものの、自らが大使として朝鮮に赴くことを強く主張した。
同年9月に岩倉具視や大久保利通らが帰国すると、国内の内治を最優先とする立場から西郷の遣使に強く反対した。木戸孝允らも加わり、内治優先派と即時遣使を主張する西郷らの対立が決定的なものとなった。10月に入り、太政大臣の三条実美が病に倒れると、大久保らの働きかけによって明治天皇から岩倉が太政大臣摂行に任命された。
結果と影響
10月23日、岩倉は明治天皇に対して遣使延期の意見を奏上し、これが認められた。これに反発した西郷隆盛は参議などの官職を辞して鹿児島へ帰郷した。翌24日から25日にかけて、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らの参議も相次いで辞表を提出し、受理された。さらに、西郷や板垣らに近い政治家、官僚、軍人ら約600名が職を辞して政府を去ることとなった。この政変は、その後の国内政治の方向性を内治優先へと決定づけるとともに、のちの不平士族の反乱や自由民権運動へとつながる大きな転換点となった。
よくある質問
明治六年政変とは何ですか?
明治六年政変の主な原因は何ですか?
政変によって誰が政府を去りましたか?
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参考文献
佐々木克「明治六年政変と大久保利通」『奈良史学』第28号、2011年。