明治時代の政治勢力「民党」の歴史的背景と展開
📌 主なポイント
- ✓民党は、明治時代に自由党や立憲改進党などの民権派各党を指した総称である。
- ✓政府の超然主義や保守系勢力に対抗し、民衆の代表として「民党」と呼ばれた。
- ✓「民力休養・政費節減」を掲げ、政府と激しい対立や折衝を行った。
- ✓政界の再編や二大政党制への収斂に伴い、次第に使用されなくなった。
民党(みんとう)とは、明治時代の日本において自由民権運動を推進した自由党や立憲改進党などの民権派各党の総称である。主に、帝国議会の開設から日清戦争の頃にかけて用いられた政治用語であり、のちに政界が二大政党制へと収斂していく過程でその使用頻度は減少したものの、大正期に至るまで「民衆代表政党」としてのニュアンスを込めて使用されることがあった。
概要と誕生の背景
第1回衆議院議員総選挙の結果、自由党や立憲改進党などの民権派各党は衆議院の過半数を制した。彼らは自らを世論の意思を体現する存在と捉え、政府を帝国議会から切り離そうとする超然主義を掲げる政府側および、それに同調する保守系の勢力と鋭く対立した。
民権派の議員らは、自分たちこそが国民や民衆の代表であるという意識から「民党」という自称を用い、反対勢力である政府官僚寄りの勢力を「吏党」と呼んで批判した。幸徳秋水の著作における説によれば、中江兆民が立憲自由党の機関紙『立憲自由新聞』において「民党」「吏党」の呼称を用いたことがその普及に寄与したとされる。
帝国議会における動向と吏党との対立
民党は「民力休養・政費節減」をスローガンに掲げ、政府に対して一貫して対決姿勢を示した。これに対し、政府側は第2回衆議院議員総選挙の際に選挙干渉を行って民党の弱体化を図ったが、結果として政府側の大きな敗北に終わった。
その後、日清戦争や条約改正を巡る政治情勢の変化に伴い、自由党が第2次伊藤内閣と協調関係に転じる一方で、立憲改進党が吏党側と連携して政府を攻撃するなど、民党の陣営内には亀裂が生じた。さらに第2次松方内閣においては、立憲改進党の後身である進歩党と政府が接近して事実上の連立政権(松隈内閣)が形成され、今度は自由党側がこれを攻撃するというように、従来の「民党対吏党」という単純な対立軸は大きく揺らぐこととなった。
用語の衰退
犬養毅のように、民衆の代表であるという意識から「民党」という呼称や立場にこだわり続けた政治家も存在した。しかし、やがて政界が自由党系と伊藤博文系官僚による立憲政友会、および立憲改進党系と桂太郎派による立憲同志会を中心とした二大政党制へ移行していくにつれて、「民党」という言葉は歴史的な用語となっていった。