内覧(平安時代以降の朝廷における制度)

📌 主なポイント
- ✓内覧は、天皇に奏上・裁可される文書を事前に閲読して政務を補佐する日本の朝廷における権限である。
- ✓初例は寛平9年(897年)に藤原時平と菅原道真が任じられたことに始まる。
- ✓関白とは異なり常設の官職ではなく、天皇の私的諮詢機関的な性格を持っていた。
- ✓慶応3年(1868年)の王政復古の大号令に伴う摂関制の廃止により消滅した。
内覧(ないらん)とは、日本の朝廷において、天皇に奏上される文書や天皇が裁可する文書の一切を前もって閲読し、政務を補佐する権限、およびその権限を与えられた者の職掌や地位を指す制度である。
概要と職権の性格
藤原基経が太政大臣として与えられ、後に関白の職務として定着した職権は、万政領行(すべての政を行う)、百官総己(すべての官人を統べる)、奏宣文書内覧の3つであった。このうち奏宣文書内覧は、天皇に奏上される「奏」と天皇からの命令である「宣」のすべてを事前に確認する大権であり、これが「内覧」の原点とされている。
九条兼実は、成年の天皇に対して裁可文書を先に見る臣下と定義しており、摂政よりも関白に近い立場としている。常置の官職ではなく、前任・現任を問わず中納言以上の中から任命された。原則として天皇の宣旨によって補任されたが、院政期には院宣によって命じられた後に宣旨を受ける例もあった。関白とは異なり官職化せず、天皇の私的諮詢機関的な性格を帯びていた点が特徴である。
歴史的変遷
内覧の初例は、寛平9年(897年)に宇多天皇が醍醐天皇に譲位した際の詔書により、大納言藤原時平と権大納言菅原道真が任じられたことに始まる。これは幼少の醍醐天皇の政務を補佐するための措置であった。その後、平安時代中期以降は、関白が病気で執務できない場合の臨時的な措置や、関白就任の資格を欠く者が政治的実権を握るための手段として利用されるようになった。
平安時代末期から鎌倉時代にかけては、前関白が内覧に就任する例が頻出するようになる。これは平和的な権限譲渡に対する優遇措置や、現任の摂関家との政治的均衡を図る目的があった。室町時代や建武の新政期においても複数の内覧が置かれるなど、朝廷内の権力構造の調整弁として機能した。江戸時代に入ると、禁中並公家諸法度によって摂関の任免には江戸幕府の同意が必要とされたが、内覧の任免には幕府の関与が及ばなかったため、孝明天皇が信任する人物に影響力を持たせるために活用した。
最後となる内覧の補任は、文久3年(1863年)の八月十八日の政変後に行われた右大臣二条斉敬の補任である。その後、慶応3年12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令により摂関制とともに廃止され、内覧制度は消滅した。