日本の俳人
中村草田男の生涯と俳句芸術
昭和を代表する俳人・中村草田男の代表句や客観写生、難解派としての作風、戦中戦後の俳句論争における足跡を解説する百科事典記事。
📌 主なポイント
- ✓中村草田男は1901年に生まれ、1983年に没した昭和時代の代表的な俳人である。
- ✓代表句「降る雪や明治は遠くなりにけり」は1931年に作られ、母校の青南小学校には句碑が建てられている。
- ✓「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」という句によって、「萬緑」という語を季語として定着させた。
- ✓「ホトトギス」に留まりながらも西洋近代文学の思想性を取り入れ、難解派・人間探求派として俳句論争をリードした。
中村草田男(なかむら くさたお、1901年 - 1983年)は、昭和時代に活躍した日本の俳人である。高浜虚子が率いる「ホトトギス」に学びながらも、独自の思想性や西洋近代文学の影響を取り入れた作風で知られ、加藤楸邨や石田波郷らとともに「人間探求派」や「難解派」の一翼を担った。
代表的な句と制作背景
草田男は生涯にわたって数多くの優れた句を残した。その代表作には以下のようなものがある。
- 蟾蜍(ひきがえる)長子家去る由もなし(『長子』所収) - 第一句集を代表する句であり、作者自身は「宿命の中における決意」に近いものを暗示していると語っている。
- 降る雪や明治は遠くなりにけり(1931年作、『長子』所収) - 大学時代に母校の青南小学校を訪ねた際の感慨を詠んだもので、草田男の代表句として広く知られている。1977年には同校に句碑が建立された。
- 萬緑の中や吾子の歯生え初むる(1939年作、『火の島』所収) - 「萬緑(万緑)」という漢語を季語として初めて用い、定着させたことで知られる。
- 勇気こそ地の塩なれや梅真白(1944年作、『来し方行方』所収) - 聖書の「地の塩」という表現に由来し、教え子たちの学徒動員に際して詠まれた。
- 葡萄食ふ一語一語の如くにて(1947年作、『銀河依然』所収)
作風と文学的立場
自己流で「ホトトギス」の客観写生を学んだのち、季語の象徴性を生かしつつ、西洋近代文学の思想性を日本的な情感に解かしこむ表現を模索した。時には難解な語句や大胆な字あさり・破調を用いたため、「難解派」と呼ばれる一因となった。
多くの仲間が「ホトトギス」を離反して「馬酔木」などに拠ったのに対し、草田男は「ホトトギス」に残り続け、俳句の伝統性や固有性の枠内に止まろうとした。しかし、同誌のスローガンである「客観写生」や「花鳥諷詠」の安易な運営に対しては、自己不在や人生逃避に陥りかねないという危惧を抱いていた。戦時中には時局に便乗した年長俳人からの圧力もあり、1943年以降は同誌への投句を断念している。
戦後における俳句論争
戦前から戦後にかけて、草田男は俳句論争史において主導的な役割を果たした。日野草城の連作「ミヤコホテル」に対する批判をはじめ、新興俳句運動やルビ俳句運動に対しては強い関心を示しつつも、厳しい批判者の立場をとった。
戦後も「第二芸術論」や「天狼」の根源俳句論、前衛俳句、さらには山本健吉の「軽み」論をめぐる論争において自らの立場を表明した。また、戦中の作「壮行や深雪に犬のみ腰をおとし」における描写をめぐっては、批評家の間で「草田男の犬論争」と呼ばれる議論が巻き起こるなど、常に近代俳句のあり方を問い続けた。
よくある質問
中村草田男の代表的な句にはどのようなものがありますか?
「降る雪や明治は遠くなりにけり」「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」「蟾蜍長子家去る由もなし」などが広く知られています。
「萬緑」という言葉を季語として定着させたのは誰ですか?
中村草田男が1939年の句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」で用いたことにより、季語として定着しました。
中村草田男が所属していた主な俳句雑誌はどこですか?
高浜虚子が率いる「ホトトギス」に拠り、戦時中に投句を断念するまで同誌に留まりました。
関連記事
高浜虚子加藤楸邨石田波郷ホトトギス近代俳句季語
参考文献
- 日本古典文学大辞典および現代俳句関連資料
- 各句集(『長子』『火の島』『来し方行方』『銀河依然』)所収データ