社会問題・公害史

新潟水俣病(第二水俣病)の原因と発生の経緯

新潟水俣病(第二水俣病)の発生原因、昭和電工鹿瀬工場によるメチル水銀の阿賀野川への排出、および発覚までの経緯を解説する百科事典記事。

📌 主なポイント

  • 新潟水俣病の原因物質であるメチル水銀は、昭和電工鹿瀬工場から阿賀野川へ排出された。
  • メチル水銀はアセトアルデヒド製造の触媒として使用された硫酸第二水銀から副生された。
  • 阿賀野川の魚介類を通じた生物濃縮により、下流地域の住民に健康被害が発生した。
  • 1965年1月に鹿瀬工場でのアセトアルデヒド生産が終了し、同年5月に発生が公式確認された。

新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)は、新潟県阿賀野川流域において発生した公害病であり、いわゆる四大公害病の一つに数えられる。原因物質であるメチル水銀を含んだ工場排水が河川に放出されたことにより引き起こされた有機水銀中毒症である。

昭和電工鹿瀬工場の稼働とアセトアルデヒド生産

原因物質であるメチル水銀を阿賀野川に排出したのは、新潟県東蒲原郡鹿瀬町(現・阿賀町)に位置していた昭和電工鹿瀬工場であった。鹿瀬工場はもともと、昭和恐慌の影響に伴う電力会社の余剰電力を背景に、東京電燈、東信電気、鈴木商店の共同出資によって1929年(昭和4年)に昭和肥料鹿瀬工場として操業を開始した施設であり、当時はカーバイドから肥料用の石灰窒素を生産していた。

1936年(昭和11年)には工場に隣接して昭和合成化学工業が設立され、アセチレンやアセトアルデヒドを経て酢酸やその誘導品を合成する事業が開始された。第二次世界大戦後、石灰窒素肥料の低価格化や消費水準の向上に伴って有機合成原料としてのカーバイドの価値が高まり、同工場では有機合成部門の比重が増加していった。1957年(昭和32年)5月には昭和合成化学工業が昭和電工に吸収合併され、「昭和電工鹿瀬工場」となった。

アセトアルデヒドの生産量推移

昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド生産量推移を示す表
昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド生産量推移
生産量(トン)
1957年6,251
1958年6,630
1959年9,143
1960年11,800
1961年15,552
1962年17,734
1963年19,043
1964年19,476
1965年543

メチル水銀の排出と健康被害の発生

アセトアルデヒドの合成工程では、アセチレンに水を加える際の触媒として使用される硫酸第二水銀が変化し、副生成物としてメチル水銀が生じていた。鹿瀬工場では有機合成用のアセトアルデヒド生産が中心となるにつれて生産量を急増させ、閉鎖前の3年間には月産平均1,500トンに達した。排水中に含まれていたメチル水銀は生産量1トンあたり2グラムから20グラム程度と推計され、稼働状況によっては1日に100グラムから1キログラム程度のメチル水銀が阿賀野川へ放流されていた。

放出されたメチル水銀は河川水で希釈されたものの、生物濃縮によって川魚に高濃度で蓄積された。この汚染された川魚を摂取した住民の間で有機水銀中毒の症状が現れた。患者は下流部に多く、特に河口付近で漁獲され自家用に消費された魚介類、とりわけ底棲性のニゴイなどを好んで食べた成人の男性に患者が集中するという特徴がみられた。

公式確認と工場の閉鎖

1965年(昭和40年)1月、昭和電工はエチレン直接酸化法による新プラントを山口県徳山市(現・周南市)に稼働させたことに伴い、鹿瀬工場でのアセトアルデヒド生産を同年1月10日に終了した。同年1月18日、新潟大学の椿忠雄らが新潟市内の入院患者を診察して有機水銀中毒症と推量し、同年5月31日に新潟県衛生部へ報告を行ったことで新潟水俣病の発生が公式確認された。発見された時点ですでに原因物質の排出は終了していた。

よくある質問

新潟水俣病の原因物質は何ですか?
昭和電工鹿瀬工場の製造工程から阿賀野川へ排出されたメチル水銀です。
メチル水銀はどのようにして排出されましたか?
アセトアルデヒドを合成する際に触媒として使用されていた硫酸第二水銀が変化して副生され、工場排水を通じて阿賀野川に放流されました。
どのような被害の特徴がありましたか?
阿賀野川下流の魚介類を多く摂取した住民に被害がみられ、特に底棲性のニゴイなどを好んで食べた成人の男性に患者が集中する傾向がありました。

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参考文献

新潟県公式資料および関連自治体・研究機関の公表資料に基づく。