日本近代史における陸軍拡張と二個師団増設問題
📌 主なポイント
- ✓二個師団増設問題は、朝鮮半島に駐留する2個師団の増設を巡り、陸軍と第2次西園寺内閣が対立した政治問題である。
- ✓1912年12月、上原勇作陸相が辞任し後任が補充されなかったことで、軍部大臣現役武官制により第2次西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。
- ✓この政治的混乱は世論の反発を呼び、大正政変や第一次護憲運動へとつながる重要な契機となった。
- ✓最終的に2個師団(第19師団・第20師団)の設置予算は1915年に認められ、同年12月に設置された。
二個師団増設問題(にこしだんぞうせつもんだい)とは、日露戦争後の情勢変化を背景に、明治後期から大正初期にかけて発生した、帝国陸軍の軍備拡張を巡る重要な政治問題である。第2次西園寺内閣が陸軍の師団増設要求を拒否したことに対し、陸軍が陸軍大臣を辞職させ後任を出さずに内閣を総辞職に追い込んだことで、当時の政党政治と藩閥・軍部勢力との対立が表面化した。
背景と帝国国防方針の成立
日露戦争直前の陸軍は13個師団体制であったが、戦時中および戦後の増強により19個師団体制となっていた。陸軍では戦後のロシアによる報復を警戒し、従来の守勢から攻勢への転換を図る中でさらなる増強を求めていた。一方、元老の山縣有朋らは「平時25個師団・戦時50個師団」への拡張を構想し、海軍の八八艦隊構想とも連動する形で「帝国国防方針」が1907年(明治40年)4月に裁可された。この方針策定において軍部は統帥権を盾に内閣の関与を退けたが、内閣総理大臣の西園寺公望は財政状況を前提条件としてこれに同意していた。
第2次西園寺内閣と陸軍の対立
1911年(明治44年)に成立した第2次西園寺内閣のもとで、1912年(明治45年/大正元年)4月に石本新六陸相が急死し、後任として上原勇作が就任した。上原は軍務局長の田中義一とともに、シベリア鉄道の複線化によるロシアの脅威、辛亥革命による中国情勢の不安定化、さらに韓国併合に伴う朝鮮半島常駐部隊(2個師団)の必要性を訴え、積極的な増設運動を展開した。
これに対し、第2次西園寺内閣は深刻な財政難や日露協商の成立による関係の安定を理由に、増設は時期尚早であると主張した。内閣は各省に対して予算の1割削減を求めていたが、陸軍側は削減幅を3%にとどめて差分の7%を師団増設費に充てるよう要求し、両者の対立は激化した。
内閣総辞職と大正政変への影響
1912年11月、閣議において上原陸相が具体的な予算措置を求めて強硬な姿勢を示したのに対し、内閣はこれを拒否した。同年12月2日、上原は天皇に直接上奏して辞職を伝え、陸軍が後任の陸軍大臣を推薦しなかったため、第2次西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。この事件は軍部大臣現役武官制の仕組みを利用したものであり、藩閥・軍部に対する世論の強い反発を招いた。陸軍の後押しを受けて成立した第3次桂内閣に対しても第一次護憲運動が巻き起こり、わずか2か月で崩壊する(大正政変)など、大正期の政治体制に大きな波紋を広げた。
増設の実現
その後、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、第2次大隈内閣のもとで2個師団増設の必要性が再び浮上した。1915年3月の第12回衆議院議員総選挙を経て、同年6月に増設予算が成立し、同年12月に第19師団が咸鏡北道の羅南に、第20師団が京城郊外の竜山にそれぞれ設置された。
よくある質問
二個師団増設問題とは何ですか?
なぜ陸軍は師団の増設を求めたのですか?
この問題によってどのような政治的影響がありましたか?
最終的に増設された師団はどこに置かれましたか?
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参考文献
- 山本四郎「二個師団増設問題」『国史大辞典10』吉川弘文館、1989年。
- 由井正臣「二個師団増設問題」『日本史大事典5』平凡社、1993年。
- 山本四郎「二個師団増設問題」『日本歴史大事典3』小学館、2001年。
- 伊藤之雄『元老ー近代日本の真の指導者たち』中公新書、2016年。