日本の歴史

二卿事件:明治初期の反政府政変未遂事件の全貌

明治4年に発生した攘夷派公卿・愛宕通旭と外山光輔による明治政府転覆未遂事件(二卿事件)の背景、計画、発覚までの歴史を解説します。

📌 主なポイント

  • 二卿事件は明治4年(1871年)に発生した明治政府の転覆未遂事件である。
  • 中心人物となったのは攘夷派の公卿である愛宕通旭と外山光輔である。
  • 政府側の捜査によって計画が発覚し、数百名規模の逮捕者を出した結果、首謀者2名は切腹となった。

二卿事件(にきょうじけん)は、明治4年(1871年)に発生した、攘夷派の公卿である愛宕通旭と外山光輔を中心とする明治政府転覆未遂事件である。「外山・愛宕事件」とも称される。

背景

尊皇攘夷運動の中心を担ってきた薩摩藩や長州藩などの藩士を中心として成立した明治政府は、戊辰戦争の終結に伴い「開国和親」を国家方針として打ち出した。これに対し、強硬な攘夷断行を期待していた全国の攘夷派志士や一部の公卿らは強い失望と憤りを抱くことになった。彼らは新政府を打倒して新たな政権を樹立し、改めて外国との対決姿勢をとるべきだと主張した。

計画の進展

かつて「廷臣二十二卿列参事件」に加わった経歴を持つ愛宕通旭は、明治政府の参与を免ぜられて京都に閑居していた。愛宕は、新政府の実権を握った薩長の下級武士らによって公卿が政治の中枢から排除されていくことに不満を募らせていた。家臣らの同調を得た愛宕は、明治天皇を京都へ連れ戻し、攘夷を断行するクーデター計画に加担することになった。

一方、同じく京都に滞在していた外山光輔も、家臣の高田修らとともに同様の政府転覆計画を模索していた。東京で愛宕が計画を進めていることを知った外山は使者を送り、双方の勢力間で協力関係が結ばれた。さらに、久留米藩の同志や大楽源太郎らとも連絡が取り合われ、複雑な反政府勢力のネットワークが形成された。

発覚と処罰

広沢真臣暗殺事件の捜査を進めていた政府側に計画の情報がもたらされ、山縣有朋らが中心となって摘発が実行された。明治4年3月(1871年4月から5月)にかけて、外山光輔や愛宕通旭をはじめとする関係者が相次いで捕縛された。この検挙は全国規模に及び、最終的に数百名規模の逮捕者が出る事態となった。

首謀者とされた愛宕通旭と外山光輔の2名は、明治4年12月3日(1872年1月12日)に二条城において切腹に処せられた。

よくある質問

二卿事件とは何ですか?
明治4年(1871年)に攘夷派の公卿である愛宕通旭と外山光輔らが中心となり、明治政府の転覆と攘夷の断行を企てた政変未遂事件です。
事件の首謀者は誰ですか?
主な首謀者として、公卿の愛宕通旭と外山光輔の2名が挙げられます。
事件はどのようにして発覚しましたか?
広沢真臣暗殺事件の捜査に関連して政府側に情報がもたらせ、山縣有朋らの主導によって関係者の摘発が進められたことで発覚しました。

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参考文献

石井孝『明治維新と自由民権』(1993年、有隣堂)国立公文書館所蔵関連文書