大正時代の対中経済援助:西原借款の全貌と歴史的影響
📌 主なポイント
- ✓西原借款は1917年から1918年にかけて、日本の中華民国北京政府(段祺瑞政権)に対して行われた。
- ✓交渉にあたった寺内正毅首相の側近である西原亀三の名前から名付けられた。
- ✓総額は1億4500万円に及び、資金は主に日本興業銀行、朝鮮銀行、台湾銀行が拠出した。
- ✓提供された資金の大部分は段祺瑞派軍閥の軍費として消費され、後にほとんど償還されなかった。
西原借款(にしはらしゃっかん)は、大正時代(1917年から1918年にかけて)に、日本の寺内正毅内閣の主導のもとで中華民国北京政府の段祺瑞政権に対して行われた一連の経済的借款の総称である。当時の首相・寺内正毅の側近であった実業家の西原亀三が交渉の矢面に立ったことからこの名称が付けられた。
背景と交渉の仕組み
第一次世界大戦の最中、日本政府は中国における権益の拡大や、当時欧州に注力していた列強との協調姿勢を示すため、従来の外交ルートとは異なる方法を模索した。これまでの対中借款を主に担当してきた横浜正金銀行ではなく、大蔵大臣であった勝田主計の斡旋により、日本興業銀行、朝鮮銀行、台湾銀行の3行が資金調達を担当することとなった。
交渉にあたっては、西原亀三が「個人として」中国側の政治家である曹汝霖らの新交通系グループと折衝を行い、鉄道、鉱山、森林などの開発権益や名目を設定した。中国側では、段祺瑞派の軍閥が政権を維持するための軍費としてこれらの資金が利用されることになった。
借款の経過と規模
1917年1月の交通銀行に対する500万円の借款供与を皮切りに、複数回にわたる契約が結ばれた。1918年9月には、満蒙4鉄道借款前資金、済順・高徐2鉄道借款前資金、参戦借款の3種がそれぞれ2000万円ずつ供与されるなど、総額は最終的に1億4500万円規模に達した。さらに、3208万円相当の武器供与もあわせて行われた。
しかし、借款の多くは軍事費や政権維持の経費に消えたため、担保や事業の実態が伴わないものが多く存在した。
影響と評価
1920年に段祺瑞政権が失脚すると、借款のほとんどは償還されないまま暗礁に乗り上げた。多額の債権が回収不能となったため、日中双方において政府の秘密外交や無責任な資金援助に対する激しい批判の材料となった。
その後、1926年には日本側において「対支借款関係債務の整理に関する法律」が公布され、政府保証による債務の整理が行われることになった。また、当時の大蔵大臣であった勝田主計の子息・勝田龍夫の回顧などによれば、西原借款の背景には単なる軍事援助にとどまらず、日中間の通貨統合や経済圏の構築を見据えた構想が存在したという指摘もなされている。
よくある質問
西原借款とは何ですか?
誰が交渉を行いましたか?
借款の総額はどれくらいですか?
西原借款はどのように返済されましたか?
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参考文献
勝田龍夫『昭和の履歴書』文藝春秋。
塚本英樹『日本外交と対中国借款問題 「援助」を巡る協調と競合』法政大学出版局、2020年。