野村吉三郎:昭和期の海軍軍人・外交官・政治家の生涯

📌 主なポイント
- ✓1877年12月16日に和歌山県で生まれた。
- ✓海軍兵学校26期を次席で卒業し、最終階級は海軍大将に達した。
- ✓1932年の上海天長節爆弾事件で右眼を失明した。
- ✓第二次近衛内閣期に駐米大使として日米開戦回避のための交渉に奔走した。
- ✓戦後は日本ビクター社長を経て参議院議員を務めた。
野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1877年〈明治10年〉12月16日 - 1964年〈昭和39年〉5月8日)は、昭和初期に活躍した日本の海軍軍人、外交官、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。
和歌山県出身。国際法の権威として知られ、阿部内閣の外務大臣や第二次近衛内閣時の駐米大使を務め、太平洋戦争開戦直前まで日米間の外交交渉に奔走した。戦後は日本ビクターの社長を経て政治家に転じ、参議院議員を務めた。
生涯
海軍軍人としての経歴
旧紀州藩士の家に生まれ、野村正胤の養子となる。和歌山中学校などを経て、海軍兵学校(26期)を次席で卒業した。少尉候補生として乗組勤務を経験した後、戦艦「三笠」の引き取りに伴うイギリス出張や、オーストリア・ドイツ駐在、在アメリカ日本大使館駐在武官を歴任するなど、早い段階から海外経験を積んだ。
1919年のパリ講和会議や1921年のワシントン軍縮会議では全権団随員を務め、軍令部次長や呉・横須賀の両鎮守府司令長官などの要職を歴任した。1932年の第一次上海事変では第三艦隊司令長官として上海派遣軍を側面支援したが、同年4月29日の上海天長節爆弾事件に遭遇し、右眼を失明した。傷が癒えた後、1933年に海軍大将に親任され、軍事参議官などを務めた後、1937年に予備役となった。
学習院長と外交活動
1937年4月、第16代の学習院長に就任した。海軍大将経験者が学習院長に就任するのは初めてのことであり、1939年10月までその任にあたった。
1939年9月、阿部内閣の外務大臣に就任した。国際法に通じた専門家として登用されたが、阿部内閣の短命に伴い数ヶ月で辞任した。その後、1940年11月に駐米大使に起用され、フランクリン・ルーズベルト大統領らとの旧知の仲を生かして日米関係の悪化を防ぐため交渉にあたった。しかし、日米間の溝は埋まらず、1941年12月の太平洋戦争開戦を迎えることとなった。開戦後はワシントンD.C.に一時抑留され、交換船を経て1942年8月に帰国した。
戦後の活動と政界進出
終戦後の1946年8月に公職追放となった。1953年には日本ビクター(現・JVCケンウッド)の社長に就任し、RCAとの技術支援契約を結ぶなどして経営再建の道筋をつけた。
公職追放解除後は、海上警備隊(のちの海上自衛隊)の創設に関与し、その功績などを背景に1954年の参議院議員補欠選挙(和歌山地方区)で初当選を果たした。以降、参議院議員を2期務め、自由民主党の参議院議員会長などを歴任した。1964年5月8日、東京都内で病死した。86歳没。
よくある質問
野村吉三郎の最終階級は何ですか?
野村吉三郎はどのような事件で負傷しましたか?
駐米大使としての主な役割は何でしたか?
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参考文献
半藤一利『昭和海軍の首脳たち』文春文庫、2013年。