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濃人渉:戦前・戦後のプロ野球を支えた名選手・監督

名古屋金鯱軍の契約第1号選手であり、中日ドラゴンズやロッテオリオンズで監督を務めた濃人渉の生涯と野球界への足跡を解説します。

📌 主なポイント

  • 名古屋金鯱軍の契約第1号選手としてプロ野球界に参加。
  • 1970年にロッテオリオンズの監督としてパ・リーグ優勝を達成。
  • 広島での被爆体験を持ち、戦後も野球指導者として多大な功績を残した。

濃人渉(のうにん わたる、1915年3月22日 - 1990年10月10日)は、広島県広島市出身のプロ野球選手、監督。日本プロ野球の黎明期から指導者として長く活躍し、特に日鉄二瀬での育成手腕や、ロッテオリオンズ監督としてのリーグ優勝などで知られる。

生い立ちと野球との出会い

ハワイで雑貨商を営む両親のもとに生まれたが、幼少期は広島で育った。旧制広陵中学校(現・広陵高校)では強肩の遊撃手として活躍。卒業後は広島専売局を経て、1936年に創設された名古屋金鯱軍の契約第1号選手としてプロ野球界に入った。

現役時代と戦時下の体験

名古屋金鯱軍では主力遊撃手としてプレー。1937年には召集を受け中国戦線へ従軍し、過酷な戦場を生き抜いた。1940年に帰還しチームへ復帰したが、戦時下の混乱の中でチームは合併・解散を繰り返した。1945年8月6日、広島で被爆。材木の下敷きとなるも奇跡的に無傷で生還した経験を持つ。戦後は国民リーグのグリーンバーグ・結城ブレーブスなどでプレーし、1948年に金星スターズで現役を引退した。

指導者としての功績

引退後は日鉄二瀬の監督に就任。厳しい指導とデータに基づいた野球でチームを都市対抗野球の強豪へと育て上げ、「濃人学校」と称された。1960年には中日ドラゴンズの二軍監督としてプロ球界に復帰し、翌年一軍監督に就任。新人・権藤博の酷使などの議論を呼ぶ采配もあったが、チームの若返りを図った。1967年途中からは東京オリオンズ(のちロッテオリオンズ)の監督に昇格。1970年にはパ・リーグ独走優勝を果たした。

人物と評価

被爆者としての苦悩を抱えながらも、野球への情熱を絶やすことなく指導に打ち込んだ。特に若手育成に定評があり、古葉竹識や江藤慎一など多くの名選手を輩出した。1990年に75歳で死去。

よくある質問

濃人渉はどの球団で監督を務めましたか?
中日ドラゴンズ(1961-1962年)および東京・ロッテオリオンズ(1967-1971年)で監督を務めました。
濃人渉の指導者としての特徴は何ですか?
日鉄二瀬時代に「濃人学校」と呼ばれた厳しい指導と、データに基づいた野球理論が特徴です。
濃人渉は被爆者ですか?
はい、1945年の広島への原爆投下時に広島市内で被爆しています。

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参考文献

  • 小坂亮太「【連載】命までは取られん 濃人渉の野球道」『中日新聞』2025年8月5日-9日。
  • 『週刊文春』1970年8月17日号「俄かに注目! ロッテ濃人監督のヌーボー管理法」。
  • 産経ニュース「【焦土からのプレーボール 濃人渉物語】」2015年8月。