織田政権の歴史と政治構造に関する研究

📌 主なポイント
- ✓織田政権は、織田信長が政治的主導権を握った1573年から1585年頃までの期間に成立していたとされる武家政権である。
- ✓永禄11年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を第15代将軍に擁立した。
- ✓元亀4年(1573年)7月、信長は足利義昭を京都から追放し、室町幕府は事実上消滅した。
- ✓天正10年(1582年)6月、本能寺の変により織田信長および信忠が横死した。
織田政権(おだせいけん)とは、日本の安土桃山時代に成立した武家政権である。一般に、織田信長が政治的主導権を握っていた1573年(元亀4年/天正元年)から、1585年(天正13年)頃までの期間を指して用いられる用語である。
呼称と学術的定義
信長が築き上げた政治権力については、その性格を巡って歴史学上で様々な呼称や解釈がなされている。従来の戦国大名権力とは異なる近世の統一権力の先駆けとしての側面を重視し、「織田政権」あるいは「信長政権」と呼ばれることが多い。
一方で、勝者の立場を前提とする「統一権力」という表現を避けるべきとする観点からの「信長権力」という呼称や、信長の実質的な将軍就任を想定して「安土幕府」と位置づける見解も存在する。
歴史的展開
政権の確立
永禄11年(1568年)、織田信長は前将軍・足利義輝の弟である足利義昭を奉じて上洛を果たし、京都で勢力を張っていた三好政権を駆逐した。信長は義昭を第15代将軍に擁立し、自身はその側近として畿内における支配権を固めていった。
政権の危機と室町幕府の崩壊
当初は協力関係にあった信長と足利義昭であったが、信長が発した「殿中御掟」などを契機に対立が表面化した。元亀3年(1572年)に武田信玄が西上作戦を開始すると、義昭は信玄と結んで信長に対抗する姿勢を鮮明にし、いわゆる信長包囲網が形成された。
しかし、元亀4年(1573年)4月に武田信玄が陣没したことで包囲網は動揺し、同年7月に信長は足利義昭を京都から追放した。これにより室町幕府は事実上の消滅を迎えた。
勢力の拡大と本能寺の変
その後、信長は長篠の戦いでの武田勝頼撃破や、石山戦争の終結などにより、畿内から周辺諸国へと勢力を拡大させた。天正10年(1582年)には、東は甲信・関東の一部、西は中国地方に至るまでの広大な地域に影響力を及ぼすに至った。
しかし同年6月2日、京都の本能寺において、家臣の明智光秀の謀反により信長および嫡男・織田信忠が自害した(本能寺の変)。
崩壊と豊臣政権への移行
信長の死後、織田家の宿老たちが集まった清須会議において、信長の嫡孫である三法師が後継者として擁立された。しかし、羽柴秀吉と柴田勝家の対立をはじめとする内部抗争が激化し、賤ヶ岳の戦いなどを経て秀吉が権力を急速に掌握していった。その後、織田家家督代行となった織田信雄と羽柴秀吉の対立や小牧・長久手の戦いなどを経て、織田政権は事実上豊臣政権へと移行していくこととなった。
よくある質問
織田政権の成立時期はいつですか?
織田政権はなぜ終焉を迎えたのですか?
室町幕府と織田政権の関係はどうのようなものですか?
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参考文献
三鬼清一郎『織豊期の国家と秩序』青史出版、2012年。
久野雅司『織田政権の京都支配』戎光祥出版、2019年。