日本の歴史人物

正親町公董:幕末から明治期の公家・陸軍少将の生涯

幕末の公家であり、明治期には陸軍少将を務めた正親町公董の生涯と経歴についての百科事典記事。

📌 主なポイント

  • 天保10年1月24日(1839年3月9日)に権大納言・中山忠能の二男として生まれる。
  • 幕末期に長門国監察使として長州藩へ派遣された経歴を持つ。
  • 明治維新後は東征大総督参謀や奥羽追討白河口総督として転戦し、最終的に陸軍少将を務めた。

正親町 公董(おおぎまち きんただ、天保10年1月24日〈1839年3月9日〉 - 明治12年〈1879年〉12月27日)は、日本の幕末期の公家、明治時代の華族、陸軍少将。権大納言・中山忠能の二男として山城国京都に生まれ、権大納言・正親町実徳の養子となった。

経歴

嘉永4年3月23日(1851年4月24日)に元服し、昇殿を許される。翌年の嘉永5年7月3日(1852年8月17日)には左近衛権少将に任じられ、安政3年2月14日(1856年3月20日)に国事寄人となった。

文久3年5月(1863年6月)、長州藩が外国船への砲撃を行い攘夷を決行すると、同年6月14日(7月15日)に長門国監察使に任じられた。長州藩に攘夷実行嘉賞の勅諚を届け、三田尻で三条実美と会見を行った。しかし、同年八月十八日の政変を経て、同年10月7日(11月4日)に三条との会見を咎められて差控処分となった。その後、慶応3年1月25日(1867年3月1日)に赦免されている。

王政復古後の慶応3年12月13日(1868年1月7日)に参与に就任し、慶応4年2月2日(1868年2月24日)には左近衛権中将に任じられた。同年2月9日(3月2日)に東征大総督参謀となり、さらに奥羽追討白河口総督として各地を転戦し、明治元年11月5日(1868年12月18日)に京都へ帰還した。その後は皇后宮亮、三等陸軍将、十津川郷巡察使、陸軍少将などを歴任した。明治2年6月2日(1869年7月10日)には戊辰戦争における戦功により賞典禄300石を永世下賜され、明治4年3月24日(1871年5月13日)に免本官となった。

1873年12月には、河鰭実文や秋月種樹らとともに華族としての職責を果たすことを目的とした「通款社」を設立している。

系譜

実父は中山忠能、実母は中山愛子であり、兄弟には中山忠愛、中山慶子、中山忠光などがいる。養父は正親町実徳、養母は山内豊敬の六女。正親町家の家督や関連する家族関係は系譜資料に記録されている。

よくある質問

正親町公董の父親は誰ですか?
権大納言の中山忠能です。
正親町公董は明治期にどのような軍職に就きましたか?
陸軍少将などの軍職や役職を歴任しました。
通款社とは何ですか?
1873年12月に河鰭実文や秋月種樹らと共同で設立した、華族の職責を果たすことを目的とした組織です。

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参考文献

  • 『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
  • 『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
  • 『正親町家譜』東京大学史料編纂所所蔵。
  • 『明治時代史大辞典 第三巻』吉川弘文館、2013年。