大久保一翁の生涯と幕末・明治期の政治活動

📌 主なポイント
- ✓大久保一翁は文化14年11月(1818年1月)に旗本の子として生まれた。
- ✓阿部正弘に見出され、勝海舟を幕府に推挙したことで知られる。
- ✓慶応4年(1868年)の江戸開城において、勝海舟らと共に無血開城に尽力した。
- ✓明治維新後は静岡藩の政務に関わったほか、東京府知事や元老院議官を務めた。
大久保 一翁(おおくぼ いちおう、文化14年11月29日〈1818年1月5日〉 - 1888年〈明治21年〉7月31日)は、日本の江戸時代後期(幕末)から明治時代にかけての旗本、政治家。幼名は市三郎、のちに忠寛と名乗り、隠居後に一翁と号した。幕府の要職を歴任し、明治維新後は東京府知事や元老院議官を務めた。最終官位および栄典は従二位勲二等子爵。
生涯
幕臣としての台頭
文化14年11月(1818年1月)、旗本・大久保忠尚の子として江戸に生まれる。第11代将軍・徳川家斉の小姓を務めた後、天保13年(1842年)に家督を相続した。老中・阿部正弘に見出され、安政元年(1854年)に目付兼海防掛に任じられる。また、海防意見書を提出した勝海舟の才能を評価し、阿部正弘に推挙して登用させる契機を作った。その後、軍制改正用掛、外国貿易取調掛、蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行や京都町奉行などの地方官も務めた。
幕政の混乱と左遷
安政3年(1857年)の阿部正弘の死後、大老となった井伊直弼による安政の大獄が始まると、京都における志士の逮捕を命じられた。しかし、井伊の厳しすぎる処分方針や部下の横暴に反発し、処罰を行ったことから井伊に疎まれ、奉行職を罷免された。その後、桜田門外の変を経て文久元年(1861年)に復帰を許され、外国奉行、大目付、御側御用取次などの要職に就いた。
大政奉還と江戸開城
第14代将軍・徳川家茂に仕えるかたわら、政事総裁職の松平慶永らと交友を持ち、長州征伐への反対や朝廷への政権返還を提案した。第15代将軍・徳川慶喜に対しても大政奉還や諸藩の合議制による政治を献策している。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後は会計総裁および若年寄に抜擢され、勝海舟や山岡鉄舟らとともに江戸城の無血開城の実務に尽力した。
明治維新後
徳川家達が駿河へ移封されるのに従って静岡藩に移り、藩政改革に参画した。由利公正の商法会所を参考に静岡藩でも商法会所を設立し、徳川慶喜の推挙により渋沢栄一を登用するなど藩財政の立て直しに尽力した。その後、明治政府に転じて東京府知事や元老院議官を務め、明治政府の制度整備に協力した。晩年はリウマチを患い、1888年(明治21年)7月31日に72歳で死去した。