日本の歴史
大久保利通暗殺事件

1878年(明治11年)に発生した大久保利通暗殺事件(紀尾井坂の変)の経緯、背景、および歴史的影響について解説します。
📌 主なポイント
- ✓1878年(明治11年)5月14日午前8時30分頃に発生した。
- ✓襲撃現場は紀尾井坂ではなく、現在の清水谷公園前である。
- ✓実行犯は島田一郎ら士族6名であった。
- ✓大久保利通は全身に16箇所の傷を負い、即死した。
大久保利通暗殺事件(おおくぼとしみちあんさつじけん)は、1878年(明治11年)5月14日、明治政府の参議・大久保利通が士族らによって暗殺された事件である。一般には「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」として知られるが、襲撃現場は紀尾井坂そのものではなく、現在の東京都千代田区紀尾井町の清水谷付近である。
事件の背景
実行犯は島田一郎ら石川県士族6名と、島根県士族1名の計6名で構成されていた。彼らは征韓論の挫折や、相次ぐ士族反乱の失敗を経て、政府高官の暗殺による実力行使へと方針を転換した。島田らは「斬奸状」を起草し、大久保による有司専制、国費の浪費、民権の抑圧などを糾弾した。

暗殺の実行
1878年5月14日午前8時頃、大久保は馬車で赤坂仮皇居へ向かう途中、清水谷において襲撃を受けた。御者の中村太郎は立ち向かったが刺殺され、大久保も馬車から引きずり降ろされて斬殺された。大久保は護身用の武器を所持しておらず、全身に多数の傷を負い、享年49(満47歳)で死去した。
事件の影響
事件後、政府は暗殺犯を「国事犯」として臨時裁判所で裁き、同年7月に全員を斬罪に処した。この事件を機に、政府高官の警護体制が強化された。また、実行犯の出身地である石川県は、不平士族が多い難治県として警戒され、後の分県(福井県、富山県の分離)の一因ともなった。

よくある質問
紀尾井坂の変の正確な場所はどこですか?
現在の東京都千代田区紀尾井町の清水谷付近です。紀尾井坂そのものではありません。
なぜ大久保利通は暗殺されたのですか?
島田一郎らは、大久保が国会を開設せず民権を抑圧していることや、不要な土木事業による国費の浪費などを理由に、斬奸状を掲げて暗殺を行いました。
暗殺犯はどうなりましたか?
事件直後に自首し、臨時裁判所での審理を経て、同年7月27日に全員が斬罪に処されました。
関連記事
大久保利通明治維新西南戦争士族反乱
参考文献
- 勝田政治『政事家大久保利通』講談社、2003年。
- 遠矢浩規『利通暗殺 紀尾井町事件の基礎的研究』行人社、1986年。
- 『贈右大臣正二位大久保利通葬送略記・乾』(国立公文書館デジタルアーカイブ)