大関増徳:幕末の黒羽藩主と主君押込事件の生涯

📌 主なポイント
- ✓大関増徳は下野国黒羽藩の第14代藩主である。
- ✓家臣団との対立から文久元年(1861年)に座敷牢へ監禁され、強制的に隠居させられた(主君押込)。
- ✓誕生日は長らく9月19日とされていたが、出土した胞衣容器の調査により9月17日であることが判明している。
大関 増徳(おおせき ますよし)は、江戸時代後期から大正時代にかけての大名。下野国黒羽藩の第14代藩主であり、官位は従五位下・信濃守、明治維新後は従三位に叙された。

生涯と家督相続
天保10年(1839年)、丹波国篠山藩主で老中を務めた青山忠良の五男として誕生した。長らく誕生日は天保10年9月19日とされてきたが、港区立青山中学校に保管されていた石製の胞衣容器(えなようき)の発見・調査により、実際には同年9月17日の誕生であることが判明している。この胞衣容器は2006年(平成18年)に東京都港区の文化財に指定された。
安政3年(1856年)4月19日、第13代藩主・大関増昭の死去に伴い、末期養子として黒羽藩の家督を相続した。同月25日には第13代将軍・徳川家定に御目見を果たし、翌年12月には従五位下・能登守に叙任された。
主君押込と隠居
万延元年(1860年)8月、先々代藩主・大関増儀の娘であった正室のお鉱と離婚した。この婚姻関係の解消を巡り、藩主による家乗っ取りであるとの強い反発が家中で巻き起こった。文久元年(1861年)1月18日、家老を務める益子右近や滝田典膳、村上左太夫、風野五兵衛ら家臣団によって座敷牢に監禁される事態に発展した。
いわゆる「主君押込」を受けた増徳は、同年10月9日に幕府へ隠居届を提出して受理され、西尾忠宝の三男である養子の増裕に家督を譲って強制的に隠居させられた。その後、明治維新を経て、慶応3年(1867年)4月には増式(ますつね)へと改名している。晩年は東京で過ごし、大正4年(1915年)1月27日に77歳で死去した。
系譜と親族
実父は丹波篠山藩主の青山忠良であり、実母は側室の福亀である。正室はお鉱(大関増儀の娘)であったが後に離縁し、継室として仲(福貴)を迎えた。
子女には長男の大関釥や、陸軍大将・一戸兵衛の嫡養子となった六男の一戸寛などがいる。一戸寛は秩父宮雍仁親王の皇族附武官を務めた。また、その孫にあたる小野寺百合子はスウェーデン駐在武官・小野寺信の夫人であり、『ムーミン』などの翻訳を手がけたことで知られる。娘たちは下総古河藩主の土井利与夫人、黒羽藩士・大沼氏の長男である盾雄夫人、黒羽藩家老家の風野光四郎夫人となっている。