日本の元号
応安 - 日本の南北朝時代の北朝元号
日本の南北朝時代、北朝方で使用された元号「応安(おうあん)」に関する歴史的背景や主な出来事、改元の由来を解説します。
📌 主なポイント
- ✓応安は日本の南北朝時代における北朝側の元号であり、1368年から1375年まで使用された。
- ✓元号の典拠は『毛詩正義』大雅江漢の「幸応安定」に基づくもので、勘申者は唐橋時親である。
- ✓応安元年(1368年)に足利義満が征夷大将軍に就任し、応安の半済令が出された。
応安(おうあん、旧字体:應安)は、日本の南北朝時代の元号の一つです。北朝方において貞治の後、永和の前に使用されました。期間としては1368年から1375年までの期間を指し、この時期の北朝方の天皇は後光厳天皇および後円融天皇、南朝方は長慶天皇にあたります。また、室町幕府では足利義満が将軍に就任した時期でもあります。
改元の由来と背景
貞治7年2月18日(ユリウス暦1368年3月7日)、疫病や天変地異を理由として改元が行われました。元号の典拠となったのは、中国の古典『毛詩正義』大雅・江漢の節にある「今四方既已平、服王国之内、幸応安定」という記述から採られています。この際の勘申者は、治部卿であった唐橋時親(菅原時親)が務めました。
主な出来事
応安年間には、室町幕府の体制固めや各地での動乱、外交上の動きなど、重要な歴史的出来事が複数発生しました。
- 1368年(応安元年):2月に武蔵平一揆が発生。12月には足利義満が征夷大将軍に就任しました。また、同年には応安の半済令が出されています。
- 1369年(応安2年):1月に南朝方の有力武将である楠木正儀が幕府へ降伏しました。また、中国の明朝が九州で活動していた南朝の懐良親王に対して倭寇の討伐を要請する動きが見られました。
- 1370年(応安3年):7月に今川貞世(今川如庵)が九州探題に任じられ、現地へ派遣されました。
- 1374年(応安7年):3月に後円融天皇が践祚しました。
この時代の主な人物の動静
応安の期間中には、皇族や有力武将の誕生および死去が相次ぎました。
- 誕生:1372年(応安5年)に伏見宮貞成親王が誕生しています。
- 死去:1368年(応安元年)に後村上天皇が崩御し、1371年(応安4年)には少弐頼尚が享年77で死去、1373年(応安6年)には佐々木道誉が死去しました。
よくある質問
応安とは何の時代ですか?
日本の南北朝時代において、京都の北朝方で使用された元号です。期間は1368年から1375年までです。
応安の元号の由来は何ですか?
中国の古典『毛詩正義』大雅・江漢の記述にある「幸応安定」から採られました。
応安の期間中にはどのような重要な政治的出来事がありましたか?
足利義満の征夷大将軍就任や応安の半済令の発令、楠木正儀の幕府降伏、今川貞世の九州探題派遣などが行われました。
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参考文献
『毛詩正義』
日本史史料関連の公的記録および諸家系図