パイノパイノパイ(東京節)の歴史と背景

📌 主なポイント
- ✓1918年に演歌師の添田知道によって発表された俗謡である。
- ✓原曲はヘンリー・クレイ・ワーク作曲の「ジョージア行進曲」である。
- ✓当時の東京の風俗や社会情勢を風刺した歌詞が特徴である。
「パイノパイノパイ」は、大正時代に日本で広く親しまれた俗謡であり、一般には「東京節(とうきょうぶし)」の名でも知られています。演歌師の添田知道(添田さつき)が作詞を手がけ、1918年(大正7年)に発表されました。
楽曲の背景と成立
本曲のメロディーは、ヘンリー・クレイ・ワークが作曲したアメリカの楽曲「ジョージア行進曲(Marching Through Georgia)」を原曲としています。このメロディーは添田による作詞以前から日本国内で広く知られており、1892年には東宮鉄真呂の作詞による軍歌「ますらたけを」として販売されていたほか、救世軍の街宣活動などでも使用されていました。

添田知道による作詞の経緯について、添田自身の回想によれば、父である添田唖蝉坊の助言を受けて制作されました。当時19歳であった添田は、宿直の一晩で歌詞を書き上げたとされています。歌詞には、当時の東京の風俗や社会状況が色濃く反映されており、丸の内、帝国劇場、浅草などの名所や、当時の世相を風刺する内容が盛り込まれました。

社会情勢と風刺
1919年には、第一次世界大戦後の社会情勢を反映した「平和節」が発表されました。当時の日本は物価高騰などのインフレに直面しており、歌詞の中には市民生活の困窮や政治に対する批判的な視点が含まれています。例えば、米価高騰に対する代用食の推奨を暗愚と批判する内容や、当時の交通機関である東京市電を冷やかす表現などが特徴的です。
後世への影響
「パイノパイノパイ」は、その時代を超えた風刺性から、後世のアーティストによっても繰り返しカバーやリメイクが行われてきました。なぎら健壱、ザ・ドリフターズ、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットなどが独自の解釈で歌い継いでおり、映画やCMソングとしても頻繁に起用されています。また、落語家の出囃子として使用されるなど、現代の芸能文化においてもその影響を見ることができます。
よくある質問
「パイノパイノパイ」の原曲は何ですか?
誰が作詞しましたか?
なぜ「東京節」とも呼ばれるのですか?
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参考文献
- 添田唖蝉坊・知道 演歌二代風狂伝(木村聖哉・リブロポート社・1987)
- 日本軍歌 第三版(納所辨次郎・博文館・1892)
- 演歌師の生活(添田知道・雄山閣出版・1967年)
- 添田唖蝉坊・添田知道著作集 4 演歌の明治大正史(添田知道・刀水書房・1982年)
- 日本俗語大辞典(第3版)(米川明彦編・東京堂出版・2006年)