歴史上の人物
ピョートル・ドゥルノヴォ:帝政ロシアの政治家

帝政ロシアの官僚・政治家ピョートル・ドゥルノヴォの生涯と、対独協調を説いた政治的見解について解説します。
📌 主なポイント
- ✓1884年にロシア帝国の警察局長に就任した。
- ✓1905年にセルゲイ・ウィッテの推薦で内務大臣を務めた。
- ✓ドイツとの同盟を重視し、英仏との関係強化に反対する外交的見解を持っていた。
ピョートル・ニコラエヴィッチ・ドゥルノヴォ(Pyotr Nikolayevich Durnovo、1845年3月24日 - 1915年9月24日)は、帝政ロシア末期の法律家、官僚、政治家である。内務大臣などを歴任し、特に第一次世界大戦前夜のロシアにおける対外政策への提言で知られる。
経歴
モスクワ県出身。ロシア帝国海軍兵学校および軍事・海軍法律アカデミーを卒業後、司法省に入省した。キエフ控訴裁判所での勤務を経て、1881年に内務省へ移籍。1884年には警察局長(警察庁長官)に就任し、治安維持の要職を務めた。その後、1893年にスペイン大使へ転出、同年に元老院議員に任命された。1900年には内務省郵政・逓信担当次官に就任し、1905年にはセルゲイ・ウィッテの推薦により内務大臣に就任した。ウィッテが首相として指導力を発揮する中で内相を務めたが、ウィッテの辞任に伴い自身も職を辞した。
政治的見解と対外政策
ドゥルノヴォは、ロシアの対外政策においてドイツとの同盟を重視し、英仏両国との接近には慎重な立場をとった。彼は、ロシアとドイツの国益は補完関係にあり、両国間の戦争は既存の政治秩序を崩壊させる危険があると警告した。第一次世界大戦の開戦後、彼の予測はロシア国内の情勢において重要な意味を持つこととなった。

晩年と死後
1915年、ペトログラードにて死去。彼が住んでいた邸宅は、二月革命後の1917年6月にアナーキストらによって占拠され、その後、臨時政府による武力鎮圧の対象となったことで歴史に名を残した。
よくある質問
ピョートル・ドゥルノヴォの主な政治的立場は何でしたか?
彼はドイツとの同盟関係を重視し、英仏との接近がロシアの既存秩序を破壊するリスクがあると主張していました。
ドゥルノヴォはいつ亡くなりましたか?
1915年9月24日にペトログラードで亡くなりました。
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参考文献
長谷川毅「犯罪,警察,サモスード : ロシア革命下ペトログラードの社会史への一試論」『スラヴ研究』第34巻、北海道大学スラブ研究センター、1987年、27-55頁。